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聖徳太子(3)

 聖徳太子のお話の続きです。

前回、聖徳太子の父・用明天皇の死を契機に、物部守屋と蘇我馬子の対立が先鋭化していったところでお話を終えていました。

この当時のヤマト政権内部は、蘇我氏が一歩リードしています。
出自が孝元天皇から出た武内宿禰(皇族血統)の流れであることも大きいでしょうか。
これに、物部守屋が抵抗を示すようになります。
用明天皇の死後、穴穂部皇子を擁立し蘇我馬子を追いやろうとします。
が、これを察知した蘇我馬子は、逆に穴穂部皇子を殺害し群臣を糾合して物部氏を逆賊扱いにして戦争状態に突入していくことになります。

物部守屋は、現在の八尾市周辺に拠点を有していたこともあり、戦場は、八尾市や東大阪市(衣摺)周辺となりました。
物部氏は神武の東征で神武天皇に従うようになったものの、元々は大和(現在の奈良県)で君臨していた大王・饒速日を祖とする名門です。
ヤマト政権が発足して以降、大伴氏と並ぶ軍事氏族として重責を担っていました。
ですから、蘇我氏や群臣らの連合軍を相手に渡り合うことが出来たのです。
もっとも、数の力から考えるといずれ物部氏が敗北したと思いますが・・・

さて。ここからは、伝承の類になるのですが・・・
この戦いに参加していた聖徳太子は、自ら四天王像を彫り、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済するとして、戦勝祈願を行なったといいます。
そして、実際に勝利をおさめ、四天王寺建立が行われることになりました。

どこからどこまでが事実なのかは分かりませんが、四天王寺が建立されたことは事実ですし、四天王寺が聖徳太子の願いで建てられたのも事実と考えられます。

こののち、皇統は、用明天皇の弟である崇峻天皇に移りました。
ここで、息子の聖徳太子(14歳)ではなく、崇峻天皇(34歳)が選ばれたのは、古代の天皇は30歳以上の年齢という不文律があったからです。
これが変わってくるのは藤原氏が台頭した摂関政治以降といえます。

しかしながら・・・

崇峻天皇は、血統こそ蘇我系でしたが、蘇我馬子と考えが合わない天皇だったようです。

代表的な齟齬事例としては、

  •  仏教需要に対して消極的だったこと

  •  蘇我馬子の娘の河上娘かわかみのいらつめと不仲だったこと

  •  地方に国造を派遣し王権拡大を図り重臣らの既得権を奪ったこと

  •  欽明天皇の遺言に従い、任那復興軍の派遣を行なったこと

が挙げられます。

蘇我馬子としては、仏教受容は、海外交易の利益、技術輸入の恩恵を企図してのものであり、国の繁栄のためにも欠かせないものでした。
また、娘との不仲は、王家との血縁関係を弱めかねない危険な兆候でもありました。
そして、蘇我物部戦争もあり、国内の疲弊が残っている状況での半島進出は、国家財政の観点からも好ましくありませんでした。

崇峻天皇との齟齬が大きくなる中、群臣らの既得権益を損ねる国造の地方派遣は、群臣らの崇峻天皇からの離反を招き、蘇我馬子を支持する層が増えることに繋がりました。

こうして、蘇我馬子は重臣らの指示を得て、崇峻天皇を殺害。
推古天皇を擁立するという挙に出ました。
日本の歴史上、弑逆されたと明記されているのは、この件だけとなります。
※)疑わしいとされることはあっても、事実として明確に歴史書に明記されたものは他に存在していません。

こうして、日本史上初の女帝・推古天皇(39歳)が誕生。
弱冠・二十歳の聖徳太子が摂政に就任するということになったのです。
なお、推古天皇には長男・竹田皇子がいたのですが、即位前後に死去しています。
仮に、竹田皇子が死去していなければ、聖徳太子が摂政に就任する機会は訪れなかっただろうと思われます。

賢いという評判はあったものの聖徳太子はしょせん若輩者でした。
蘇我馬子にとっては、自身の血脈に連なる皇子であること。
推古天皇にとっては甥であり、娘婿でした。

この微妙な距離感が聖徳太子にとってどのように作用したのか?
聖徳太子が30歳を過ぎても即位出来なかった、あるいは、しなかった? 点に現れているかもしれません。
それは、蘇我氏の血が濃すぎる皇子であるということです。
父方にも母方にも蘇我稲目の血が入っていますので、これ以上、蘇我氏の血を入れると遺伝的に問題が発生しかねません。
もっとも、当時の人々に近親婚の弊害がどこまで認知されていたのか? は明確ではないです。
※)同母の兄弟姉妹は避けられていますが、異母であれば近親婚がありました。皇室内で多かったのが、叔父と姪の結婚です。
他にも政治的に蘇我氏とズレが生じたり、改革を推し進めすぎて豪族たちから反感を買っていたことも影響があるかもしれません。
いずれにせよ、聖徳太子の晩年は政治的には寂しいものになり、山背大兄王は性格に難があったとかいう伝承もあって、最終的には族滅となります。

さて、話を戻してオシマイにします。

崇峻天皇が弑逆されたことにより、多くの政策転換が行なわれました。
もちろん、実権を握ったのは蘇我馬子です。
聖徳太子は、摂政就任からしばらくは仏教振興の方に力点を置いた活動をしていくことになります。

政治の表舞台に出ることになるのは、まだ数年の時間が必要だったのでした。

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