見出し画像

SAGAノート#2 おもてとウラと

『何がよくて悪いのか コインの表と裏みたいだ』
山根麻衣「THE REAL FOLK BLUES」より

100円硬貨が2枚あった。職場近くの自販機に滑り込ませ、缶コーヒーを買う。つかの間の一服とともに、脳内会議がスタートした。議題は『硬貨の「おもて」と「ウラ」はどう決まるのか』である。

※この会議はあくまで個人内の問答であり、現行制度に疑問を呈したり、他者との意見のぶつけ合いを期待したりするものではない。もっぱら妄想の類であると一笑に付していただくことを望む。

100円硬貨には2種類の図柄があり、桜が描かれた面が「おもて」、100と書かれた面(正確には製造年が刻印されている面)が「ウラ」とされている。この「おもて」と「ウラ」の定義は造幣局によって定められ、これは硬貨製造時の都合によって取り決められている。私にとって疑問なのは、なぜ桜が「おもて」で100が「ウラ」でなければならないのか、逆でも問題ないのではないか、ということだ。

例えばコンビニの会計で取り出す硬貨を確かめるとき、より重要なのは「数字」の方だ。「桜は100円で、稲穂は5円で、平等院鳳凰堂が10円で……」と認知するのは、脳トレでこそすれ、コンビニのレジ前ではしないだろう。この点を踏まえると、より優先される情報が刻まれた面が「おもて」ととらえるのが自然ではないだろうか。硬貨の価値を示す面が「おもて」であり、「ウラ」は硬貨に装飾を施すための面とすれば、生活に基づく形で合点がゆきそうなものである。

そもそも硬貨の「おもて」と「ウラ」を区別することは、実生活においてどれほど重要なことなのか。レジで会計をするとき、硬貨1枚1枚の「おもて」と「ウラ」を逐一確認することなく硬貨を選び取っている。硬貨の「おもて」と「ウラ」を揃えることも特にしない。会計を済ませるのに「おもて」と「ウラ」の判別を明確にする必要がないからだ(もしあなたが
コンビニ店員で、お釣りを返す際にすべての紙幣と硬貨の面を揃えるよう訓練されているならば、この限りではないだろう)。硬貨はその面が統一されなければ効力を失う、といった制度は存在しない。硬貨の「おもて」と「ウラ」は使用上では区別する根拠を持たないが、他の何らかによって両者を区別する必要性を有するという、なんとも不可思議なな成り立ちによって形成されているのだ。

もし全国民に100と書かれた面は「おもて」にすべきか「ウラ」にすべきか質問をして、1人を除く全員が「おもて」にすべきと答えたら、今の状態は覆るのだろうか。もし「ウラ」にすべきと答えた人物が総理大臣であったら、覆らぬままであろうか。『総理大臣の甥っ子で、現在無職の男』が意見を述べたらどうだろう。多数派が勝つか。仮にその人物が『現在無職の男だが、実は総理大臣の甥っ子である』と紹介されたら、趨勢に変動はあるのか。いや、造幣局の理事長が「ウラ」にすべきと唱える方がより影響力があるのか。『造幣局理事長の甥っ子』と『総理大臣の甥っ子』ではどちらがより説得力を持ちうるのか……。

1時の時計が、妄想会議の解散を宣告した。硬貨の「おもて」と「ウラ」の問題は結局解決しなかったが、別の成果をもたらしたように思う。

『歪な銅貨』

仕事のみならず私たちの生活では、「なぜそうなっているのか」より「誰がそう定めたのか」を根拠に求めたがる節がある。それは社会の都合上いたし方ないことで、物事をある程度円滑に進めるために有効な基準の1つである。しかし今回の会議で考察したように、時には物事の仕組みや特徴を分析し、その行動や取り決めがいかなる効果や利益を持ち、それを支持するかしないかを吟味することも重要ではないだろうか。属人的になりがちな思考に鞭を入れ、100円の「おもて」と「ウラ」を考える。何がよくて、悪いのか。

コーヒー缶は黙秘した。

とっぴんぱらりのぷう。


Masato SAGA
ゼンタングル作品はコチラ↓
Instagram: https://www.instagram.com/saga_masato_/?hl=ja

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?