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子育ての記憶(03)小学校入学

 既に記憶が混濁し始めているが、自分の人生において最大かつ最長のイベントだった子育てについて記録しておきたい。娘が成人した今となっては、全ての事柄が振り返りになるので、当然に真実だけでなく、思い込みや記憶違いも多々含まれるはずだ。それは、もはや記録ではなく創造物に近い物になってしまう可能性も大きい。でも、今だからこそ書こう。明日にはボヤけ、明後日には忘れてしまうのだろうから。

子育ての記憶:イントロ

小学校をどうしよう


公立?私立?

 そもそも、小学校の設置形態だけをもって公立・私立の二項対立の比較対象とするべきなのか、ある種の方々にとっては議論が別れるところかも知れない。私立っぽい公立やら、私立のなんたるかを見失ってしまったような学校やら、設置母体の問題ではない議論の方が重要のようにも見える。
 そんな中にあっても時間の流れは止まらないので、至って小市民的な我が家にとって次なる「親として成長する過程」で立ち塞がったのは、娘が保育園を卒業したら「次に通う場所」問題だった。
 これについては、夫婦で相当の時間を議論に費やした。
 我が家での論点も、「公立私立のどちらが良いか」ではなく、「娘の良さを伸ばす環境には何が大切なのか」であり、その議論の果てに具体的選択として公私の違いが立ち現れてくるはずだった。自分は、義務教育とはいえ、そもそもイヤな場所なら学校に行かない選択だって排除するべきではない、くらいの感覚なので、現代の小学校ってどんなところ?という疑問から入るレベルではあった。そして、パートナーにも、彼女なりの子育てに関する理念があったので、その擦り合わせに時間をかけた。
 お受験ありき、で人生設計しているご家庭からすれば出遅れも良いところなのだろうが、我が家にとっては、普段から言葉にしないまでも感覚として共有しているものを言語化して齟齬が無いかの確認作業だったので、時間をかけたと言っても、喧々諤々言いあったのではなく、「小学校ってあ〜だったらいいね」「こうな所だと良いね」程度の会話ではあったのだが…


公立小学校の印象(あくまで私見)

 自分の認識が30年以上前の昭和の小学校のままアップデートされていない以上、何よりも必要なのは最新の情報になる。我が家のアドレスから、区割りされた本来入学するべき公立小学校の学校説明会に参加することが第一歩になるのは当然だろう。
 公立小学校入学の正当な手順だと、年長さんクラスの保護者が、入学式を迎える三ヶ月前(年明け早々)に参加するのだろうが、我が家は、一足先に年中さんクラスの年の新年に学校説明会に参加した。受付の担当者に事情を説明して参加させて頂いたが、特段、そのことで「入学する年になってからお越しください」と断られることもなく、スンナリ入場できたように思う。
 そこで、今でも忘れられない校長先生からの第一声。

「我が校においてイジメは存在しません。」
「保護者の皆さま、ご安心ください。」

【当時の校長先生のお言葉】
申し訳ありません。
お名前失念致しました。

 力強い自信に満ちた言葉と態度に対する衝撃と、それとは対照的に「なんて、心強い、素晴らしいお言葉なんだ!」と素直に受け止められない混乱した自分が居たことだけは鮮烈に覚えている。

 そう、イジメなんて無い方が良いどころか、あってはならないものだ。
 しかし、現実問題として、被害程度の差こそあれ、娘の通っていた保育園でもイジメは存在した。娘はその被害に遭っている。事前に娘から聞いていたそのイジメ行為は、あろうことか私の目の前でも行われたのだから、イジメの存在については自信を持って「存在する」と言い切れる。加害者の子に、その自覚が無かったとしても、あれは悪意に基づくイジメという行為であったと今でも確信している。無邪気とか、成長における通過点として看過して良いものでもないと思っている。

(そのイジメを見たという事実と、その行為に対して断罪・糾弾したり加害者に謝罪を求めるという反応は別物だ。)

 何が言いたいのか、と言えば、認めたくはないが「イジメの不存在を証明することは不可能であり、根絶にも相当の苦労を要する」のが現実であり、保護者としては「現実にイジメが発生するリスクが高いからこそ、空疎な“不存在宣言”よりも現実に即した発生時の対応を示して欲しい」のが本音だということだ。

 そういう認識の自分とは対極的に自信満々な態度で校長先生は言い放った。
 「イジメは存在しない」と。
(その発言自体に遺恨がある訳でもないが…何故か忘れられない)

 その所為かどうかは定かでないが、その後の校内施設の見学や、各教室の様子などの記憶はほぼ残っていない。帰宅して、パートナーに「あの学校に娘を通わせることは反対だ」と宣言したところで記憶が復活するが、その途中の部分は見事に途切れている。小学校から「逃げるようして慌てて帰宅した」という記憶バイアスがかかっていたりもする。それだけネガティブな受け止めだったのだろう。
 従って、私は当時の住居を学区域とする小学校の校内施設配置や外構周りの造作を一切知らない。その後の生活行動における範囲にその小学校が入ってくることはなく、私の人生からは全く無縁の存在になってしまったからだ。


地元の公立小学校に行かないなら?

 残る選択肢があるのか? → ある
 そう、私立の小学校だ。

 それなりの数がある私立小学校の中から、通わせたい学校を探し出せるのかに挑戦するしかない。男女共学であること、信仰を問わないこと、通学が可能なエリアにあること、月謝が我が家の所得にマッチしていること等々… 結構な制限がかかるが、とにかく情報収集するのみだ。
 自分の認識では、年中さんクラスの正月明けから、突如として私立受験に向けた方向に舵を切ったのだから、先述したように出遅れも良いところどころか、手遅れとも言える時期だった。しかし、実は、パートナーは以前から公立小学校という選択肢を排除した結論に達していたようであり、それなりに独自の情報収集やら理想像の構築を図っていたようだ。

 とある私立小学校を候補として提示された。夜に開放講座を実施して教育のあり方等について情報発信をしている学校だった。
 仕事が終わってからわざわざ小学校に行って先生のお話を聞くのは面倒臭い気もする。しかし、親が面倒になる立地であれば、娘が六年間通うことだって相当に辛いことになるし、学校説明会と称して一番お偉い方が自画自賛する場ではなく、担任をしている現場の先生がフランクに話してくれるのであればより日常の空気感も感じ取り易いだろうと思い直し、何度か通うこととなった。
 もっぱら、在校生の保護者が中心に参加するイベントだったようだが、毎回興味深く、参加満足度も高い内容で良い経験になった。


どの学校に通う?(娘の選択)

 親目線での印象としては、公開講座で登壇した先生方は、娘の小学校生活を任せたいと思える人ばかりだった。

 そうなると、あとは娘自身の希望が重要になるので、年長さんクラスに上がる春という節目でもあることから、親子での話し合いの機会を設けた。
 同じ年長さんクラスのお友達も何人かは通うであろう地元の学校か、一人の知り合いも居ない電車を乗り継いで40分以上かかる学校か、の選択だ。
 幸か不幸か、娘のクラスは、かなりの広範囲から園児が通っており、同じ学区域に居住するお友達は限定的だった。◯◯ちゃんと一緒の学校に行きたい、という希望がほぼ成立しない条件での選択だったので、娘からは、「パパ・ママが気に入った学校なら、自分も見学に行っても良い」との回答が得られた。

 それによって、彼女の五歳の年は大忙しとなった。一年間の行事に親子三人でのフル参加を目指したからだ。
 運動会を皮切りに、公開授業、秋祭り、夜の大人向け公開講座等々、学校が門戸を開いた機会は、ほぼ全てを活用した。

 もう一つ、この学校を推せると思った点が、そうしたオープンイベントの参加回数を入学選考の要素にしていないことだった。他の学校では、入学選考応募以前に学校が用意したイベントをクリアしていないと、受験資格すら得られない設計をしている学校もあった。入学選考に当たっては、その子の資質だけを見て欲しい親からすれば、親が主体の学校説明会に参加したか否かでふるいに掛けられてはたまったものではない。志望校として選んだ学校の行事関係は、ほぼ全クリした自信はあるが、それは保護者として知りたい情報を得る為に主体的に行っていることであり、審査されるための行動ではない。主体的行動と要請受諾行為は別物なので、結果としての参加率は同じでも内容は全くの別物の時間となったと思いたい。
 そもそも、入り口論から噛み合わない組織とお付き合いするのは時間の無駄なので、予備審査的な「我が校の◯◯にご参加の回数は?」という設問のある学校は全て排除してあった。
 コチラと想いが食い違っている学校に通うのなら、時間と家計に負担の少ない地元小学校に入学するので構わない、という本末顛倒なことになりかねない。従って、本質を見失わないように毎日自問自答しつつ、スケジュール調整をしていたのが懐かしい。


運命の「学校説明会」参加

 そして、遂に校長がメインで喋る学校説明会にも参加。
 そこで運命的な校長先生の一言。(と続くお言葉)

「残念ながら我が校にだってイジメはあります
「子どもですから間違えることだってあります」
「しかし、学校内での出来事に親が口を出さないでください」
「まずは子ども自身に話し合いをさせることが大切なのです」
「学校はその手助けをする役割を担います」
「そこでの保護者の皆さんからの信頼が重要となる」
必要になれば親にも来てもらうがそれまでは干渉してほしくない」

特に名は伏せますが覚えてますよ、◯◯先生

 あの時、ハッキリ言い切りましたね、先生。
 忘れまていせんよ。

 勿論、大前提として、学校は教育の場であり、基本的なモラルの習得や躾などは家庭で行うべき、という共通認識があっての発言であることは、それまでの公開講座で学校全体のポリシーとして感じ取っていた。
 教材に基づく「学習だけすれば良い」ではなく、ご家庭の代わりに「お子さんに躾も行います」でもない、ほどほどの距離感。
 授業時間だけなく、学校生活全体を通じて生じたトラブルも含めて、トータルに子どもを中心に据えて、家庭、保護者としての親の会、学校が同じ方向を向いて見守っていこうという姿勢が伝わってきた。
 校長先生は「親御さんも、学校と一緒の方向につま先を向けてください」という表現をされていた。凄く気に入った言葉選びだったので、娘の在学中にも何度も心の中でリフレインして、初心に帰る時に活用させていただくこととなった。

 実際、通学が始まったあと、何かのトラブルが発生した折に、その原因追及に固執したり、再発防止の言質を取ることにのみ焦点化してしまい、そこから何を学ぶのか忘れてしまったかのような保護者を数多く見た。
 例えが適切か分からないが、公共事業の手抜き工事の会見ではないのだから、原因説明と再発防止の言葉を獲得することが目的化するべきではないと思う。
 学校における子ども同士の行き違いに関しては、原因も大切だし、再発は防止したいが、それらは材料であって、本質的な目標は、そこから何を学べるのか考えていく姿勢なのだと感じることが多かった。
 勿論、発生原因が分からなければ何が起きたのかの事実も分からないのだが、いつの間にか原因究明が責任の所在に置き換わって、子どもたちが何を学べる機会にできるのか?という視点を逸脱して、「とにかく学校の管理体制に責任がある」「謝罪しろ」「我々を馬鹿にしているのか」というお決まりのようなモンスタームーブを繰り返す保護者もそれなりに居た。
 なぜ、この学校を選んだのか理解に苦しむタイプだったが、つま先が同じ方向を向いていないんだな…と思いながら見ていた。

時間軸がズレてます。余談です。


結局、私立の小学校に決めました

 学校行事の数々、授業の内容、それら実行に際しての理念など、見れば見るほど、知れば知るほど大いに満足いくものであった。何よりも、この学校に通うことになったとしても、今の娘に対して親が大切にして欲しいという想いを持っている「彼女の良さ」が伸びこそすれ、スポイルされるリスクを全く感じなかった。

 この段になって比較するのは申し訳ないが、地元の公立小学校から感じた種々の「硬さ」は、彼女を「普通の子」という型にはめてしまう印象が強かった。
 我が家は「普通」という言葉は疑ってかかることが多いのだが、彼女を「普通の子」になどして欲しくなかった。優秀になってもらいたい訳でもないし、特別な存在になってもらいたい訳でもない。
 ただただ、彼女らしさを潰して欲しくないだけだったのだが、公立の関係者の方々の態度・言葉・職務姿勢(情熱)などからは、その願いとは真逆のものしか感じられず、未来の六年間に暗いものしか予感できなくなるに充分な対応をされることしかなかった。

 それやこれやの経験を積んで、親レベルが1から2に上がった程度の自分ではあるが、決断した。
 「他校に先駆けて何某導入!」「グローバルな人材育生のために個性を尊重」などの素敵な謳い文句が一切なくて、実直なまでに建学当時の理念を守るために先生方が腐心している不器用な印象の学校に通わせることにした。

 試験日、ブルーデニムにお気に入りのキャラクターが描かれた緑色のパーカーという格好で会場に行き、出題された図画の課題にお気に入りのケロ⚫️軍曹の絵を書いて帰ってきた娘は、無事に選考通過の通知をもらうことができ、その学校に通うこととなった。


そうは言ってもお金の問題は大切だ・・・

 お金の問題は無視できないが、親の都合で一人っ子にしてしまった訳だし、娘に関する支出は、我が家の家計が破綻しない範囲において可能な限り最優先にした。
(親バ◯ならぬ◯カ親の典型かも?)

 公立なら月謝がかからない、というのが普通の認識だろうが、小学校に入ってから社会人になるまで全てを公立で済ませられる可能性は低いだろう。だとすれば、一番重要な小学校にこそ多少金額が多くかかろうとも、しっかりとした地固めをしておけば、歳を重ねるうちに月謝を下げる手段も見えてくる可能性はある。
 しかし、今、この瞬間に、少ない経済負担で望まない六年間を過ごすのか、値段ははるが希望した環境の中で満足のいく時間を過ごすのか、という選択であれば悩むまでもない。
 しかも、その私立学校は月謝以外にほぼ負担がなかった。後出しで寄付だの、特別講座だの、制服・学用品の押し付けが一切なかった。
 なぜかランドセルの指定だけはあったが、それも市中のテレビコマーシャルが喧伝かまびすしい高級ランドセルの三割以下の値段の合皮製のものだった。さすがに二度見どころか三度見してしまうお値段に見合う「シンプルな造り」のものではあったが…
 家計簿を付けていないので、証拠を出せないのが残念だ。

 イ⚫️ンか伊⚫️丹のお洒落で豪華な本革ランドセル、授業以外の季節ごとの行事費の追加徴収、放課後の過ごし方(学童?塾?)などの費用などなど、いくら義務教育期間の公立学校通学であっても、全くのゼロ負担では済まないだろう。
 トータルで見れば当然、公立より出費額は大きかったのだろうが、学校教育だとて一つの商品だと考えるならば、「少し値段が上がっても、より満足度の高い物を求める」ことはアリだと思う。
 まして、それがレベル感としての「満足度の多寡」ではなくて、二極の「不満か大満足か」という結果に結びつく選択であれば悩むまでもない、というのが我が家の下した結論だった。

 知人が、「小学校六年間でメルセデスが買えるじゃないか」と指摘してくれたが、その通り、メルセデスを所有して乗り回すこととは比較にならない生涯の満足度を得られるチャンスであり、逆に、それを逃せば一生後悔するターニングポイントでの決断だったのだ。
 間違えなくて本当に良かった。
 そして、分かりやすく言語化してくれた知人にも感謝だ。
 ちなみにだが、公立への通学がゼロ負担ではない以上、差分で計算すると国産ファミリーカー程度か、それ以下の負担増でしかなかったことも付け加えたい。

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