ママンが死んだ

ママンが死んだ。9月18日のことだ。俺はムルソーのように見舞いに行かなかったわけでもないから知っている。

18日の朝11:00ごろに兄から連絡があった。母の意識が低下している、と。脳梗塞を4度やって、認知症もはじまり、飯も食えなくなっていた。これまでも何度かこういった連絡があった。長くないことはわかっていたが、前日、前々日と深酒をやっていたので二度寝を決め込み、12時過ぎに再び兄から連絡があった。病院に向かえというが、流行病への警戒から面会もできない病院だったので、急いで行っても仕方がなかろうと思ってゆっくり支度をしていた。そのうちに妻も支度を始めたので、君も行くのか?と不思議に感じたが、ああ、母は今日、死ぬのかとも思った。

病院に着くとまったくものがわかっていなさそうな守衛のじいさんがおり、段取り悪く手配をしてくれた。簡易防護服のようなビニール製の服は暑かった。

病室、というのか、処置室というのか、母がいるところに連れられていく。心臓が止まっていることを報せる電子音が鳴り響いていた。医者が形式にのっとって母の胸に聴診器を当てて「14時23分、ご臨終です」と告げた。

最後には良い夢を見られたのだろうか。それだけが気になった。病院への不満や、早く帰りたい、ということをよくメールで送ってきていた。病院の食事がイヤだというので、俺が作っていこうか?(母が喜んで食べていた)トマトのリゾットでいいか?などとと提案したこともあるが、そのときは「なにもわかってない。」といわれ、理不尽さに腹が立った。

帰りたいと言われても、立ち上がれず飯も食えない人を退院させられるわけもない。病院側も許さない。段々と面倒になってきたが、それでも自分の親である。なんとか元気づけたい。スマホを渡してあったので、実家にいる猫の動画などを送るのだが、操作方法がわからないという。それは仕方がないとして、とにかく帰りたいとばかり言う。人の話を聞かない。これが認知症の症状だということを自分が飲み込んだのが遅かった。

俺は母に愛されていた。愛されていたというのはなんだかおかしな表現なような気がするが、兄より可愛がられていたと思う。それは俺としてはムカつくことだが、そのことは置いておいたとしても、死ぬ間際になってその子供から理解を得られず、独り病院で死んでいくということはどれだけ辛かっただろうか。せめて、脳の作用でもってさいごになにか良い夢をみたなら救いだ。

母の死に顔はやわらかく、地獄めいてはいなかった。辛い人生だったんじゃないかと、こちら側から見ると思うがどうだったのだろうか。確かめようはない。

葬式はせず、自宅に連れ帰って火葬だけして、骨も拾わない、遺影もいらない、墓にも入れず、永代供養とする選択をした。

宗教という詐欺にずっと引っかかり続けるのもイヤだし、死んでいるのだから自宅に連れて帰る必要もないのではないか?とも考えたが、それでは今まで世話になった母の隣人に礼が通せないということで連れて帰ることにした。

自宅から火葬までの3日間、たくさんの人が来た。隣人だけではなかった。何度も来る人もいた。「もう会えないんやなぁ」という人がおり、なぜ自分はこんなに実感がないのかと考えた。それは母の声を長い間聞いていないからではないかと思った。何度も脳梗塞で倒れた母は、言語障害があり、人と喋ることを嫌がるようになった。俺は普段から西成の酔っ払いの話を聞いているせいか、母の言うことがわかるので、彼女も嬉しかったのだろう。俺にはたくさんの声を聞かせてくれていたが、いつからかしんどくなったのだろう。筆談に切り替えた。俺は「声を出さないとダメだ」と何度も言ったが、母のプライドなのだろうか、伝わりにくくなってきたことに苛立ってきたのだろう。声を出さなくなった。半年以上は母の声を聞いていなかった。

そういえば声を出さなくなった母が「うん」と言ったことがある。自宅で寝たきりの母に「ハグしようか」と言ったときだ。

男というのは基本的に母親に対して嫌悪感に近いものを持っていると思う。母の下着を触るとか、鳥肌が立つほどにイヤだったし、いい歳をして母から小遣いを渡されることも「かまうな」という気持ちが湧いて気分が良くない。認知症の母はやたらと金を渡そうとしていた。

それでも、自立した息子がどれだけ生理的な嫌悪感を持っていたとしても、母にとっては俺は腹を痛めて血をわけた子供なのだ。体質が近いぶん、体温も近かろう。抱きしめると泣いていた。鬱にはスキンシップが必要だったりする。俺も涙が出たんだからなにか行き交うものがあったのだ。

あまりにもあっさりしたお別れで、宗教の付け入る隙を感じている。もしかしたら本当に必要なものなのかも知れない。いや、嘘だ。このなにかが抜けた空っぽの部分を埋めることは生きている同士でやることだ。それにしては生きている人同士が遠い気がする。めんどいからね。

死んだ母に会いに来た人が「まぁくんが来るっていうていつも喜んでたわ」「まぁくんがごはん作ってくれるってニッコニコやったわぁ」こんなものはもう終わったことなのだ。

俺は母になにもできなかったし、これからはまったくなにもできない。

ここから先は生きながら考えます。

酔っ払いながら無茶苦茶でもなにか書いて整理しないと、自律神経とかいかれてきててどんならんかったので。すまんね。

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