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君が思うよりも俺は君が好き

叔母が自殺未遂をした。詳細は後ろのほうで書く。

――ズタボロだ。心が腐りかけている。布団からうまく出ることもできない。これが俗に言う体調不良というやつだろうか。苦痛にも似た頭痛がある。この状態でもブログを書こうと思うのだから、まだ心は生きているのだろう。いやブログでも書かないとやってられないのかもしれない。

上沼恵美子が「なんだろう男って。なんでそんな心配されたいのかな。わからない意味が。女は我慢するもん。37度8分ぐらいだったらもう皿まで洗ってるもん。黙って自分でお医者さんに行ったらよろしいやん。黙ってね!」と言っている動画を見つけた。

上岡龍太郎と村上龍が男女論について語っている音声がYouTubeに上がっている。含蓄のある話だ。

村上:「男はこれからどうやって生きれば良いんですかね」

上岡:「男は女のように生きないかんでしょ。それがテーマやと思うんですよ。いかに女のように生きるか。子供の頃から、男の喋りはみっともないと言われた。で、泣き虫やったんです。男はめそめそ泣くもんやない、男は喋ったらいかん、めそめそするな、未練たらしくするな、あっさりしろ。本当の男というものの、一番の素材はめそめそして、未練たらしくて泣き虫なんが男なんやないかと。女にはあんまり言わない。女のくせにめそめそするなとか。女というのはめそめそしない動物なんだと。そやから、言わんでもいい。男はめそめそして未練たらしいから。つまり男はしたらいかん、と言われたことが男なんやから、逆をやりゃええか、と今は思っているんですね」

自分の殻に閉じこもるのはよくないなと思って、なるべく人のブログだったりツイートだったり読むようにしているのだが、多様な価値観と出会う。

きっと多くの人が陰でぐっとこらえて生きているのだろうと感じる。当然だが、一人ひとり個性がある。

ネットは言い争いとか、エアリプとか、そういうのが横行闊歩していて、何のフィルタリングもしないで読むとエネルギーを奪われる。

ちゃんと選別することが大事だ。特に主語が大きい文章は、それがネガティブで攻撃的な内容だと、自分のことではないと頭ではわかっていても、読んでいてなんとなく凹んでしまう。

自分を守ろう。そして言いたいことがあるなら、直接伝えてみよう。”なんとなく”じゃ伝わらない。むしろ逆効果だ。互いへのリスペクトが大事。安全圏から言いたい放題だけはやめたほうがいい。全部、自分に返ってくる。

多少、ブログを更新してきて思う。書くのは怖い。正直ビビる。だから守りに入る。そうなると「やんわり伝える」みたいな中途半端な書き方が多くなる。で、結局、誰に何を言っているのかよくわからない文章が出来上がる。

伝えた気になって、発言の責任も取らずにそっぽ向くのは、ただの逃げだ。

”愛”とは、”ちゃんとその人を見ること”だと思う。逆に”愛でない”と感じるのは、”一括りにすること”だ。

叔母が自殺未遂

自分の話だから、あまり人に言うことはないが、三森家は親戚がいない。うちの家族は俺、弟、母の三人だけで、唯一、今まで生きてきて関係があるのは母の妹、自分から見て叔母ただ一人だった。

この頃はまったく会っておらず、体調が悪いという話だけは聞いていた。母から「妹からこんなLINEが送られてきた」と言って見せてもらったことがあるが、錯乱したような文章で何が書いてあるのか解読できなかった。

ある程度、覚悟はしていたが、ついにその連絡が入った。飛び降りだった。幸い命に別状はなく、鎖骨や肋骨を骨折した程度で済んだ。入院した病院では、どこかホッとした表情で過ごしているという。

うちの母の母は自殺で亡くなっている。科学が発達した社会だ。遺伝を感じると言っても差し支えないと思う。俺も弟もいつ病んで死ぬのか、正直わからない。現に俺は毎日ぶっ倒れている。めそめそしている。上岡に言わせれば、これが真の男だ。本物はそれを見抜く。俺はそういう人たちに愛される。

身近に忍び寄る死を感じて思った。もう死ぬとしたら、何がしたいだろう。全裸で町中を歩きたいか。ノー。人をびっくりさせることも、傷つけることもしたくない。

いくら考えても、後悔なんてなかった。俺はまっすぐ生きてきたんだ。でも、もっと人を愛せたのかもしれないと思う。一人ひとりを見ないで、「人なんて」と言って一括りにしてきたのかもしれない。そういう反省がある。

ふと思ったが、もしかして反省したかったんじゃないだろうか。俺は、氷を溶かしていく温もりになりたかったんじゃないだろうか。自分が言ったことに責任を取れる人間でありたいのではなかろうか。

心の扉に何個も取り付けられた南京錠を一個ずつ取っていきたい。

めそめそと、未練たらしく。

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