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僕の足はこの長さでちょうどよいのだ

デスクチェアの肘掛けをデスクと同じ高さにすると腕が疲れない。でもそれでは足が宙に浮いてしまう。なんとかならないかなと部屋のなかを見回したら使ってなかったクッションがあった。これだと思って試しに置いたらちょうどよかった。でもできればデスクの下にクッションなんて起きたくない。こういうときもう少し足が長ければなと思う。「足が長い」の足って脚だっけ足だっけと思って検索をかけたら、南こうせつが1975年に『僕のこの足がも少し長ければ』という曲を出していた。YouTubeで検索したらあった。すごい時代だなと思いつつ聴く。いい歌詞だった。

レディースのパンツしか履けない。痩せ型で身長が低い。古着屋を見て回るとき、男物が履けたら幅が広がるのになあと思うことはしょっちゅうある。だがそういうとき身長が低いことで得していることは目につきにくい。たまに見つける。XSサイズだけセールになっているとき、「やったぜ」と思う。満員電車で立っているとき、小回りが利く。

良いことには慣れてしまうけれど、悪いことは目につきやすい。ちょっと感じの悪い人間がいたら、しばらくモヤモヤする。愛想のよい人間がいても、すぐに忘れる。つらいことがあってベッドに寝転ぶ。ふと、一筋の光のようにある人の顔が浮かんでくることがある。救われるような気持ちになる。きっと、俺の幸せを祈ってくれているに違いない。そう信じられる。

祈りはまるで曇天のなかに射す一筋の光のようだ。その光に照らされると視界が拓ける。自分という人間を育ててくれる。祈りは実りになる。誰かの幸せを願うなんて響きだけなら他愛もないことのよう。でもきっとけっこうパワーがある。

なにが良いことで何が悪いことかなんて安易には括れない。何事も時間が経ってみなきゃわからないことだらけだ。自分が自分でなければ出会えなかった出会いがある。体験できなかったことがある。壮絶な苦しみも、あとになってから実を結ぶことだってある。今はまだ時が来ていないだけかもしれない。そう思うと、ずっと待っていられる。

フラッシュバックするような記憶はそれ自体が成仏したがっているから、フラッシュバックする。記憶は成仏のときを待っているのだ。嫌なことを経験する。さっきまで気分が良かったのに一気に具合が悪くなる。孤独感がまとわりつく。状態が常態になる。記憶が世界を染め上げる。みんなが敵に見えてくる。親切にされたことの多さを思い出そうとする。

「世界 対 私」を「個人 対 私」にしてみる。良くしてくれたことの数を感覚的に数えてみる。あれもこれもと見つかる。悪くされたことを思い出す。悪く受け取ったことはあったかもしれないが、悪くされたことは皆無だ。そう思える人がいる。正常時はそれを意識をしなくても自然に行えている。それが難しい状態のとき、感謝した出来事を拾い上げる時間を持つ必要がある。

人間同士が向き合えば、必ずどこかで衝突する。ある種、人間関係というのは逃げの連続だと思う。どこまで相手のタブーに触れないで逃げ続けるか。他人と向き合うからこそ、相手の神聖な部分に礼儀を持つことができる。触れてほしくないことに触れないで、触れてほしいことに触れる。人生とは、死ぬまで逃げ続ける旅のようだと思う。

これから冬に向けて寒くなる。今日はネックウォーマーを買った。季節は俺に合わせてはくれない。俺が季節に合わせなきゃならないのだ。

生きてます