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毎日が誰かの命日

日々というか思い立ったときになるべく日記を書こうと思っているけれども、なんだかんだ言ってもやりたいことが目白押しで、気付いたらあっという間に一週間くらいは過ぎてしまう。時間はあるようには思うんだけど、それほど暇だとは思わない。そんな日々が繰り返されている。

何をしようかなと思うこともなく、手を付けていることが自分の意思でやっていることなのか、それともやらされていることなのか、あんまりわからない面もある。たとえばメモをとろうと思ってスマホを開いたら通知がきていて、それをタップしたら、何をメモしようと思っていたのか忘れる、いやそれ以上かもしれない。メモをしようと思っていたことすら忘れてしまう。

こういう底辺に流れる淀みのようなものが無意識に流れている気がする。自分でもどうしてこういうことを今やっているのかわからない。その連続が日々を作り込んでいる。

よく受動とか能動とか言われるけれど、人間の生活というのは「どっちつかず」で動き続けているんじゃないかなと思っている。

寝ても覚めても頭から離れないことがあって、それが自分を苦しめているのではないかと考えたりもしていた。それがなくなったら楽にはなるかもしれない。解き放たれたいと願う。でも実際に解き放たれたとしても、そこには広大な草原のような、ただただ自由が重い石のように鎮座していて、自由を自由に扱うことができないと感じることが多い。

多少は縛られていたほうが――ある程度のルールがあったほうが――野に放たれるよりは生きやすいのではないかと思う。もっとこうだったらいいのになあとか、いろいろ思うことはあるけれど、頭から離れていないことにある種の熱狂性を見出すと、好きでやっているわけではなくても、この思考こそが自由を謳歌しているとも言えると、そう思った。

平和で平然としているような生活の中にも細かく見ていくと苦痛していることはたくさん見つかる。「しょうがなさ性」みたいなのと常に向き合っている感覚を持つ。悔しいけど、しょうがない。億劫だけど、しょうがない。思うようにならない苛立ちと、どうしようもないなという諦念がないまぜになっている。

ネガティブとポジティブだったら、どうしてもポジティブであることのほうがより良いと思っているけれど、単調な音楽に飽きるように、どちらか片方に寄りかかり続けている状態をあまり好んではいない。

「引く」とか「押す」とか、言葉にすると単調でも「引かされている」とか「押されている」とかもある。

単純でいいじゃないと思っていた時期はとうに過ぎてしまって、何もかもが複雑に見える。「いや、こうでしょ!」と突っ込みを入れようと思う瞬間ですら「いや、そんな単純な話じゃないよな」ともう一人の自分がセーブさせる。

「わかりきっていることだよ、こうだよ」と思ったとしても、なぜそんなことが自分から言えるのかがわからなくなる。正しさなんていうのは時代で移り変わるし、周囲に合わせているだけでは流され、意固地になったら孤立する。

中庸とかそういうんじゃないんだけど、振り返ってみると「どうしようもないから諦めてきたこと」が山積している。タイミングが悪いとかもあるし、単純に金がないから諦めてきたこともある。

あまり話を聞いてくれない人がいる。「話を聞けよ」と言っても、多分、聞いてくれることはないだろう。言って聞いてくれるなら、最初から聞いてくれているはずだ。じゃあどうするのか。話を聞いてくれる人を見つければいいのか。しかし、話を聞いてくれる人を見つけようとして見つけたことがかつてあったのか。

ごちゃごちゃ考えるのは面倒くさいし、あまり健全ではないだろう。でも、考える生き物は人間だけだ。生物学には詳しくないけど、考えることが人間らしさだとも言えるわけだ。考えないで本能のまま生きていれば、それは動物性の話になると思う。

かといって人間らしくあるために考えてばかりでは動けない。自分の中の動物的な部分を発動させないと重い肩こりみたいな症状にとらわれる。そのさじ加減も自分でコントロールしているようには思えないが、だが、ここには意思がある。飲み物を入れよう。そう思って飲み物を入れている。

全部あるがままでいいんですと言いたくなるときもあるけれど、それが実感からきているか、そうでないかと問われたら、作り話のように、そう思おうとしているだけのような違和感を持つ。

こうでありたいと望む自分がいる。その通りになったら嬉しいかもしれないが、実際、自分が思う通りに運んだことより運ばないことのほうが多い。受け入れるとか受け入れないとか、そういうのすら越えて「しょうがねえ、うまくいかねえ」の連続だ。

あれやこれやとくだらないことはたくさん思いつく。それがまあ今の自分にとっての救いなんだろうなと思う。現実に利益を及ぼさない、特別な意味も持たない、ありふれたささいなことに生きる希望を見出している。

早急に答えを出さない。今それが大切だと思えてきている。「〇〇だからだめ、はい」でもなく「考えすぎる」でもなく、粘り強く。「一人飛び立つ」でもなく「全員をひっさげて」でもなく、飲み込む。無理するでもしないでもない。「なんでもいいよ」でも「絶対これだ」でもない。

人生はゲームだとは思わない。ゲームより人生はずっと真面目なものだと思う。今日も誰かの命日。「自分らしさ」すらも越える。溶け合うでもない。分断でもない。うまく言えない。すべてを愛するでもない。死がやってくるのが怖いから、先取りして死を選ぶでもない。無闇矢鱈に生き延びるでもない。理路整然と語るでもない。距離をとるでも、縁を切るでもない。考えなしにただ生きるのでもない。

苦しいが面白いものと言えば、人生だ。矛盾を孕みまくっている。情報量が多くてうんざりし、少なくて憎悪する。何百回も恥をかく。痛い目に遭う。自意識にとらわれる。穴があったら入ろうとする。抵抗するときもあれば、鵜呑みにするときもある。素直になろうとして失敗するときもあれば、朝陽が眩しいと感じるときもある。穏やかだから安定しているとも言えない。不安定の中に安定しているときもある。好きに生きろと言われなくても生きるし、誰かが何かをしてくれたから、今があるとも限らない。誰に何をされなくても今はあったと思う。

人生は作れないと思う。作れないからもどかしくて楽しいんだと思う。どうにかなることもあれば、どうにもならないこともある。言われなくてもわかることもある。体も動かすし、頭も動かす。どちらもできないこともある。やられたらやり返すこともあれば、やり返さないこともある。言い間違い、聞き間違い。杞憂。

生きてます