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俺みたいにはなるなよ

エレキを弾き始めて、一ヶ月半が経った。平均、一日二時間くらいやって、なんとかFコードが押さえられるくらいになった。コードチェンジははっきりと得意不得意があって、当たり前だが、まだまだ素人だ。

ここ数週間、街を歩いていてもどこか上の空で、目の前にあることより、考え事ばかりに気を取られてしまう。考え事というより漠然とした不安というほうが近いか。

社会から孤立しているような感覚とでも言えばいいのか。よくよく考えてみると、そりゃそうだ。働いてもいないし、普段はネットばかり見ている。自ら進んで孤立というか孤独へ向かっているとすら言える。

必然的に時間も余る。こういう日々をずっと送ってきたから、退屈だと思うことは少ない。いくらでも回避法を知っている。その内の一つに先月から、「エレキを弾く」という項目が加わったわけだ。

以前も言及した本だけれども、『置かれた場所で咲きさない』で印象に残ったフレーズがある。

「年齢は財産」。いい言葉だなあと思う。今年の9月で34になる。ドキッとするというか、恐ろしさを通り越して、年齢は財産だと考えるようにでもしないと絶望してしまう。

ふらふらと、怠惰に生きてきたものだから、正直、堂々と34だと言えるような人間ではない。34にしては人生経験がなさすぎる。

これは人によっては、自己責任ということになるのだろう。楽な生き方をしてきたのだから、その負債。

もはや取り返しがつかない。「俺の人生は終わった」とでも言いたくなる。だが、これも相当、傲慢だ。なぜなら、まだ「始まったこともない」からである。

人生が始まることもなく、歳だけは立派に取って、日頃の行いの悪さや、不摂生がたたって、病気にでもなって死ぬのだろう。

もちろん、何かのせいにすることはできる。言い訳なら、一瞬で何個でも思いつく。仮にそれが言い訳でなく、「それならしょうがないね」と同情を誘うような真実であったとしても、そう、もう俺の過去は変わらないのだ。

「じゃあ一端の人間になろう、そのための努力をしよう」と今から急には変わらない。現に、俺は先月から、エレキを触り始めている。

ちゃんと真面目に働いている人、資格を取ろうと勉強している人、そういう人たちと比べたら、俺はエレキを触ったかと思えば、次にオンラインで麻雀を打ち始める。

いわゆる「だめ人間」である。しかもここにあらゆるだめさがいくらでも加わる。どういうだめさかはプロフィール欄にだいたい書いてあるので読んでほしい。

ハキハキとした声で挨拶もできなければ、人の目を見て話すことさえままならない。優しい人はそれでも「十分頑張ってる」と言ってくれる。そういう人たちに救われてきた。

今後もずっとビクビクして、否定されることを恐れながら、自意識過剰なまま生きていくのだろう。

かまってちゃんのくせに構ってくれる人を雑に扱い、それで人が離れていったら、愚痴を言い、「孤独だ!」と叫ぶ。

人の悪いところばかりを見る。自信がないくせに自分の価値観にはいっちょ前にこだわる。

愚かで、卑しい。そして、愚かで卑しいことすらも受け入れていない。自分は、いい人間だ、と思い込んでもいる。

本当は軽蔑対象のバケモンなのである。心配されたがりの、哀れなウジ虫なのである。クズなのだ。いないほうがいい人間なのだ。俺は自分のことをそう思っている。

「自己肯定感」なんて一切育たなかった。育てようともしなかった。毎日、飯が食えているだけでありがたいと思わなくちゃいけない。寝るところがあるだけで嗚咽して喜ばなきゃいけない。

そして生きていく。今日も明日もエレキを触るし、麻雀も打つ。鬱だ鬱だと言いながら、遊び続ける。

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