やることがありゃいいんだよ
俺はバカだったのかもしれない。真面目すぎた。明日食う飯、寝るところ、将来に思いを馳せる必要がなさすぎて、ただ人生の行き止まりにぶち当たっていた。
いい意味での不真面目さが大事だった。ここ一ヶ月、何をしても気分が晴れず、もがき苦しんでいた。暗かったわけでは決してない。明るくなかったというほうが正しい。
明るさが美徳と言う人もいるけれど、俺みたいな人間はその明るさにどうしようもなく憧れている反面、まるで自分が悪人かのように感じることがある。
悪か、悪でないか。そんなことはどうでもいい。そんなことより、堂々と生きたいだけなのだ。
悩みの根本には、劣等感が深く横たわっていると思う。これは他人と比較しての劣等感とかそんな甘っちょろいもんじゃない。
人はやることがなくなると、大急ぎで苦しむようにできているのだ。俺はこのことに気付くためにずっと苦しんでいたのではないか。
だから嫌でも真面目にあれこれ考えては深刻な顔をしてしまうのだ。
ただやることがないだけなのだ。
今までいろいろ見てきて思う。この世の多くはパフォーマンスでできている。文化としての音楽も演技もそうだし、ネット上では現在進行系でインプレゾンビがたくさんいる。
生きることに必死なのだ。
翻って自分を見る。「孤独だ!」と今にも叫びながら泣くような表情で生きている。これは生きることに必死なのではない。ただ暇なのだ。
生産に取り憑かれている。そして生産がうまくできない自分を呪ってもいる。最悪な状態まで追い込まれると、無意識に人のせいにし始める。
過去のせい、親のせい。冷たい社会のせい。周囲の無関心のせい。
常に欲しがっている。人が欲しいものばかりを欲しがっている。
本当に大切なものは果たしてインプレだろうか。いいねの数だろうか。有り余るほどの富だろうか。いずれにせよそんなことすぐ忘れて、また何か始めたいと思うのが人間じゃないだろうか。
豪邸に住んでいたって人は退屈する。外に出たくなる。自転車に、バイクに、車に乗りたくなる。生き物だからだ。人間である以上、「自由」を感じたいのだ。だから人は飛び出す。
作家だってそうだ。内側にあるもの爆発させて芸術に昇華させる。内にあるものを外に出したいのだ。人の心の中を泳ぎたいのだ。
やることなんて本当は何でもいいのだ。人をディスって生き生きとする人もいれば、ゲームに熱中することで生きている感覚を取り戻そうとする人もいる。
もはや何でもいい。俺は悩むことが、趣味だった。だがよく考えると、そんな趣味を持ちたくて持ったわけじゃない。やることがないから、悩んでいただけだ。
他人とコミュニケーションを取れば、愛が巡って幸せになる。それは幻想なのかもしれない。ただ、気が紛れるだけなんだ。劣等感や罪悪感に飲み込まれなくて済むんだ。
だから元気に生きている人は何かしら手を付けている。趣味がいっぱいある。次から次へと何かやっている。
死がやってくるのを恐れるのも、やることがないからだ。自殺未遂するのもやることがないからだ。俺が今ブログを書くのもやることがないからだ。
やることがありゃいいんだよ。
生きてます