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今必要なのは思いを馳せることではないだろうか

エレキを練習していて思った。基礎練習を飛ばして、なんとなくやっているあいだはそんなにうまくならない。けれど、いろいろな動画を見て学び、ちゃんとそれを実践して取り組むと少しだとはしてもなんとなくやっているよりかは伸びる。

ただ、なんとなくやるのが一番楽しい時間でもある。だからどっちかではなく、どっちもなんだと思う。こんなことをぼんやり考えながら、人生経験も同じだろうなあと思った。

変な話、芸能人とかアスリートとか、とにかく交流の多そうな職業の人が必ずしも愛に満ちているかと言ったら――下手したら逆のこともあるくらい――そんなこともないわけだ。

月並みな表現だけど、忙しいという漢字は心を亡くすと書く。自分に愛がないと感じるからか、愛についてばかり考えてしまうのだが、愛とは心がこもっているか、なのではないか。

次から次へと迫りくる体験について考える暇すらないと、ただ記憶の一つして過ぎ去っていく。それはまるでエレキをなんとなく練習しているノリと同じように感じる。

体験を身体に落とし込むための余暇が、エレキで言うところの基礎練習みたいな側面がある。

「愛が深いな」と感じる人と会うと、気付かないレベルの気配りを感じ取れることがある。後から振り返ってみて、あれもしかしてあそこで気を遣っていたのか、そう感じられる瞬間がある。これは忙しい状態だと見落としてしまう。

変な言い方になるけれど、普通に見ているだけでは気付かないレベルの気配りというのは、その人の生きる技術みたいなもので、それを習得することができたら、自分のものにもできる。

人まねばかりだとうまくいかないし、オリジナルにこだわっても殻を破れないし、どちらにせよバランス感覚が大事なように思う。

実は人間にも生きていく上での基礎練習みたいなものがあるんじゃないか。突飛なことをやるにしても、ある範囲から出すぎると痛い目に遭う。

痛い目に遭うと、次からは同じことをしなくなる。嫌な気持ちになったとしても同じことを繰り返すということは、どこかにメリットがあるからだと思う。メリットとデメリットを天秤にかけて、無意識レベルに自分にとって利があるほうを選んでいる。

こういうツイート(今で言うところのポストか)をして、自分で考えさせられてしまった。いつもそうだ。なんとなくノリで言ったことが、自分に返ってくる。

常にないものねだりをしているような感覚がある。今ここではないどこか。新しい体験。経験はするだけいいんだと思っていたけれど、今思うと、いらないは言い過ぎにしても、今後は避けたいと思う経験はしてきた。

その繰り返しの中で、選び抜いてきたものに囲まれている。好きな人との時間を増やしたいから、今の暮らしをしている面もあるし、かといってマンネリ化すると退屈してしまうから、適度に冒険心を出してみたりもする。

わからない。もしかしたらそれは客観的に見たら、幼稚なことをやっているように見えるかもしれない。でも、自分にとっては一見幼稚でも、結構強い思いが込められていたりもする。

他人はエスパーじゃないから、そこまでは見透かせない。現に、常に隣で自分という人間を見続けているのは家族くらいで――突き放すとかそういう意味ではなく――自分のやったことの一つのステップの価値を感じられるのは他人ではなく、ずっと隣にいる人なのだ。

隣といっても物理的に一緒にいるという意味だけでもなく、長年見てきた人の感性。

友達。その存在が与えてくれるのは、周囲にとってはなんでもないような小さなステップに見えることも、その人にとってはとてつもなく大きいのだと認めてくれること。そんな気がしてならない。

弟が以前、「アンチは元信者だよ」と言って教えてくれたことがある。すごく納得がいった。長年ネットをやってきた弟が言うのだから、そうだろうなあと思った。

二項対立にするのも嫌だけど、人がアンチになるとき、基本的にアンチがつく側とアンチになる側の距離がずいぶんと開けていると感じる。実態が見えていない。

実態。それはとてつもなく情報量を孕んでいて、一筋縄では解読できない。なんとなくかかった圧力に乗っかってしまったということも十分あり得る。

体験したことがあるんじゃないだろうか。場の空気の持つ強さ。なぜかその場だと一人では絶対にしないようなこともやってしまったということが。

表面に見える事柄はたっぷりと情報量が加わっているということはあまりない。大体、裏側まで突入しないと真実に触れることができない。

信者とかアンチとか、陽キャとか陰キャとか、そういう風に区別はしたくない。だって誰しも、そのすべてを自分の内に含んでいるはずであるから。

ただ、そういう言葉が一般的によく使われているというのは事実だ。

自分も含めて、今の世の中には必要なのは「思いを馳せること」だと思う。

断罪。一刀両断。以上。ではなく、その奥には必ずと言っていいほどの膨大な情報の蓄積によってそれが行われているということ。

自分のことで恐縮だが、こういう記事を昔書いたので時間があったら読んでみてもらいたい。

最終的に選択をするのは自分で、その責任をとるのも自分だ。もし目の前で「殺れ」と言われてやってしまったら、罰を受けるのは自分だ。罪を背負うのも自分だ。

だから、本当は慎重に選ばきゃいけない。でも、勢いでやってしまうということがある。後悔しても反省しても、どうしても懺悔よりも罪の部分が際立つ。

自分を貫くというのも大事だけれど、「自分を貫け」と言われて貫いた結果を、その言葉を発した人が引き受けてくれるわけではない。

だから、人は泣く。

今、手元にあるスマホでなんでも発信できてしまう。勢いでやったことがとんでもない事態に発展することもある。

誤解もされるし、曲解もされる。真実を伝えようと思っても、親身に聞いてくれる人はいないかもしれない。

だから、人は友達を作る。長い時間をかけてまで。

とんでもないことを言われても、その発言をしている人はただの酔っ払いかもしれない。小学生かもしれない。

正直、自分の人生が今どうしてこうなっているのか、説明しようとしてもしきれない。それくらい言語化は大変な作業になる。もちろん誰にも言えないこと、言っていないことがある。

自分自身ですら自分のことがわからないときがある。物事に対して「こうあるべきだ」と強く言う瞬間も必要かもしれないが、大抵、どうしようもないことが多い。現に、どうすることもできていないことが多い。

目の前で転んだ人に「大丈夫ですか」の一声すらかけられない時がある。店員さんの目を見て「ありがとう」と言えない時もある。

どうしようもないから諦めるという話をしたいわけじゃない。どうしようもないから受け入れるという話をしたい。全部受け入れるとかそういう話でもない。ちゃんと自分を守っていかないといけない時もある。

何を言っても的外れなような気がするし、最近、何をしても苦痛に感じる。それでも言語化したいという欲求がある。それはどんなに下手な表現方法でも構わない。

自分はこういうことを考えて生きているよ。それが言えるだけでもずいぶん心が安らぐ。

生きてます