見出し画像

てれすこっぷ(無意味な文章)

(注:世の中には意味のある文章が多すぎるため、無意味な文章を書いています。決して意味を見出さないでください)

「星明りの下にみっつの獣がおりました。赤い獣。丸い獣。逆さまの獣です」

 この不可思議な体験の舞台は市立の小規模な図書館でした。休憩室の窓を開けて、窓の外に向けて、諳んじた本を朗読しているかのような彼は──何者だったのでしょうか。

 私はその日、2週間前に借りた本を返却しに図書館を訪れておりました。用を終え次に借りる本を探して館内をぶらぶらと歩いていたのですが、ふと空気の流れを感じてこの休憩室にたどり着いたのでありました。

 そこにいた『彼』は、青年という年頃ではあったのでしょう。しかし、その瞳が纏う雰囲気は儚く、今にも消え去りそうで、それが私には白昼夢として現れた少年、といった像を見せていました。

「星明りの下にみっつの獣がおりました。赤い獣。丸い獣。逆さまの獣です」

 彼の瞳がこちらを向きます。普段であれば何かしらドキリとしそうなものですが、意外なことに、私はその視線に何も驚くことはありませんでした。この空間がそのものが、そういうものだと感じていたのです。

「みっつの獣、ですか?」

 尋ねると。

「そうです。赤い獣、丸い獣、逆さまの獣です」

 返答がありました。

 その序文だけでも不思議なお話です。みっつの獣、というのにその特徴はそれぞれ独特な表現をされています。

 赤い獣──色

 丸い獣──形状

 逆さまの獣──状態

 それぞれ異なる特徴を示していますから、言ってしまえば丸い獣が赤い可能性もありますし、逆さまの獣が丸い可能性だってあります。それに加えて、3匹や3頭といった数え方ではなく、みっつの獣、と呼ばれました。

 文、というのは意思の塊といえるでしょう。

 ありきたりな、誰もが違和感を覚えない普通の文章を書くこともできたはずなのに、そうではない。それは、何か別の意図や理由があるからだ、と推測されます。それを推測させること、それこそが意図のこともあります。

「みっつの獣は、獣ですか?」

 私はそんなことを考えながら、最初に尋ねたことはそれでした。いくつかの違和感を言葉に変えたものがそれであったのでした。

 彼は長いまつげの瞼を薄く閉じながら、答えました。それは眼前の空間に直接言葉を刻むかのようでありました。

「みっつの獣は、星になりたかったのです」

「あぁ……」

 あぁ、そういうことなのかと。

 それは、理屈ではありませんでした。彼の返答は、論理ではなく、私の頭にイメージを流し込んだのです。

 星空の下にみっつの獣がおりました。『獣』は、実際は生き物なのか、物なのかはわかりません。しかし、彼らは意思を持っていたために『獣』と呼ばれておりました。彼らは星空を見上げて願っておりました。星になりたい。あの輝く星になりたいと。そうして、ひとつ目の獣は、赤く光ることで星になろうとしていました。ふたつ目の獣は、丸くなることで星になろうとしていました。みっつ目の獣は、逆さまになってみることで、星になれやしないかと、試行錯誤していたのでした。

「彼らは星になれたのでしょうか?」

「……いいえ」

 彼の否定は、優しいものでした。

「何モノも、星になることはできないでしょう。しかし、それは重要ではないのです。その憧れが、すでに彼らを何者かにしたのですから」

 そう、その通りなのでしょう。

 なんでもなかったモノたちが、赤い獣になり、丸い獣になり、逆さまの獣になった。それだけで尊く、十分な意味があったのだと。

 私はどこか、今の何者でもない自分を省みて、救われた気がしたのでした。

 私が深く礼をして頭を上げると、彼はもういなくなっていました。開け放ったままの窓から流れてくる風が、星空への憧れをかすかに残したまま、私の姿を通り抜けて静かな館内へと吹き抜けていくのでした。それはまるで、私の形を確かめていくかのように。

(EON)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?