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私の伴走者としてのわたし

朝起きてブログを書くという習慣が、2日目として続いている。褒めてあげていい、と心のなかで思ったものの、前にTwitterで流れてきた宮崎駿のドキュメンタリーのキャプチャなのだろう、自分をすぐ許す人間は大した作品は作れないんだ、という箴言も同時に思い出す。ただ、こうやって毎日やることそのものには意味があると思うし、そもそも私は物書きのプロなどは目指しておらず、そうではなくて自分じしんが毎日たのしく快活にすごせるために、こうやって書いているだけなのだから。内なる声、フロイト的にいう超自我というのを手なづけていく、怖がらなくていいんだよとなだめていくこと。システム1をシステム2で介入すること、そういったことをしないといけない。理性的にあることを目的にするのではなく、身体的・本能的なものに理性がかかわっていくこと、伴走していくこと。伴走という例えがよいのかもしれない。私の身体はわたしの内なるクライアントで、かれがちゃんとできるように、わたしが支えていくようなイメージ。伴走というイメージで思い出すのが、ろう者のマラソンの伴走者で、東京オリンピックのニュースで確か見たのだと思ったけれど、ひどく感動したことを覚えている。前職を辞めるとき、ひとの前で話す機会があり、その伴走者の話をして、私の仕事のあり方もそのような構えであるべきだ、というのを偉そうに語ったけれど、それじたいは間違ってはいないと今でも思う。ろう者のマラソンの伴走者は、ひものようなものをランナーとともに持ち、それを通じて意志を伝える。その意味合いをじしんがどう捉えたかはすっかり忘れてしまったけれども、選手が主で伴走が従うという関係だけでない、それが入れ替わりときに支え合うような、そんな感じに対し好印象を感じたのだと思う。いまの仕事はそうではないような感じだけれど、それは常にどこかに潜むもので、つまり主体的な行為者がわたしだとしても、なにかへの貢献というものが仕事には潜在・顕在しており、わたしはそれがかたちとなり成功することに向けて伴奏していく。「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」(宮沢賢治)構えてあること。なかなかそういかないのは、自分がだらしないところがあるからだけれども。今日も仕事だやだなと思わず、体操をしブログを書くことで、ポジティブシンキングでないかたちで、つまり頭でなく身体で、前向きにありたい。

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