コロナで味がへんになると潜在性に気づく

先週からコロナに罹ってしまった。もう体調的には問題ないのだけれど、感じる味が変なようだ。いまコーヒーを飲みながらこれを書いているのだけれど、磯のなまぐささというか、貝類の缶詰のあの水みたいというのかな、正確にこれ!と言えないのだけど、なんか変な味(というか匂い)がする。これがあのコロナになると味がわかんかくなるやつかと少し嬉しさもありつつ、とはいえコーヒーがまずいのでそれはそれでよくないのだ。こうやって外部のネタを探しながら、1000字を達成するために文字を並べている。そもそもこんなことに意味があるのだろうか。もちろん文章をざざざっと書く訓練になる。仕事のことでいえば、どうにもこうにも詰まっていた提案書が、ふと力を抜いて書いてみるとどうだろう、さささっとかけてしまう。いままでの詰まっていたものはなんだったんだろう。しかし、書いた時思ったのは、結局書かれた内容はたいした内容になっておらず、ずいぶんと修正する必要がある。ただ、どこを修正すればよいかということを明確にするという意味において、この雑な文章はたいへんに意味がある、ということだ。ただ、かけなかった時、それは頭ではわかっていた。しかし書けなかった。なぜ? それは他人の目か、そもそもできていないことを(書く以外の、提案すべき企画検討の意味で)明確にしたくなかったのか(それはそれでたいへんなダメさだ)、まあそういった「恥」の意識なんだよな。自分は恥に冒されている。この、誰でもないじしんが作り出してしまっている恥というものをなんとかしなければならない。ふたつアプローチがあると思う。恥というものを感じないような、あまり視線を意識しないようにじしんを鍛える。また、そもそも恥というものを感じる、じしんのタイミングや時期というものがあり、それが出現するまえに、手を打つこと。つまり、自分を改造するのか、自分の取り扱い説明書をつくるのか、どちらかということだ。そして経験上は、後者のほうがよほど約にたつものだ。改造というのは、われわれがショッカーでもない限り、たいして改造などできないのだから。わたしはわたしという限定性のなかで生き、だからこそ生き生きとすることも、できる。魚は水の中でじしんの潜在性を発揮し、鳥は風の吹く空の上において同様に舞うのだから。だから、わたしがどのような環境にじしんの潜在性を発揮するのか、それを知るべきなのだ。

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