見出し画像

読書会のためのメモ

坂口恭平の『お金の学校』を課題に読書会を今日するのだけど、本から引用しただけであまり面白くなく、そもそもこの本の面白さがよくわからない。引用とは、固めることだからかもしれない。かたまったものを取り出し、固定し、ピンで刺して、飾る。むかし、うらわ美術館の展示で、本のページを蝶のかたちにきりとって、それを壁いちめんの展示ボックスに飾っているのを見たのを、とても印象に残って覚えている。そのときは、ツイッターとか、テキストそれじたいが本文とは独立して飛び立っていき、かがやいてくような、そういう肯定的なニュアンスを考えたことを覚えている。翻って、作成した資料はその用を果たしていない。飛んでいない。この本の言葉でいえば、流れていない。この本での「流れ」というのは、大事と書いているだけでなく、実際的に文体がとても流れている。いいかえると、リズムがある。言葉と句読点で流れている。べつの本で『現実脱出論』というのがあって、この本の5年ほど前に書かれた本で、読みやすいかつ文章も整っている良い本だけど、『お金の学校』のような強烈なリズムがあるわけではない。すこし脱線すると、昨日東浩紀さんが『訂正可能性の哲学』のサイン会をYou Tubeでやっていて、そのなかで、日本語の喋り言葉と書き言葉の分離について語っていた。どんな話かというと、日本語とは別の言語であれば、ただしい文法や語が整理されているのに、日本語はそうではないと。具体的には、「たとえば」と書くのと「例えば」と書くのは、どちらも正しいことになっており、それは悪い意味での、前後の文脈や印象や漢字の並びによって決定されてしまうという話をしていて……と書いたところで、これは本当に脱線話だ。話したかったのは、日本語の喋り言葉と書き言葉には、大きな隔たりがあり、それぞれが独特の言葉の体系をもっていると。あまり整理できないのでわたしなりに翻案して言えば、喋り言葉と書き言葉をうまく一致する、言文一致をすることが大事だと。それを、坂口恭平はやってのけている感じがする。単純に読むと、『お金の学校』は雑な文章に見られるかもしれない。エッチなこともいっぱい書いてるし。そういう意味では、読書会でどうに受け止められるのか気になるけれど、ただね。つまりは、こういうのが好きなんだよね。その流れに乗って、ポイントを伝えるしかないのだろうと思っている。だから、なんとなく、キーワードだけを並べておいて、そこから自由に思いつくままに、流れる形で話したいなと思っている。本の良さを説明するには、この本自体のスタイルを語りの中にも導入しなければ、すくなくともこの本はそう説明したいなと思った。そうしたら通じるんじゃないのかなと思っている。
さて、具体的なことを考えていきたい。これは書きながら考えているのであり、こうして指を動かすことによって、内なるものを絞り出すのだから。
ひとつ、流れ・文体
さっきも話したけど、思想としてこの本で重要となってくるのは流れである。気持ちいいことは流れていることであり、その流れを作ることが私がお金となることの重要なことなのだ。千葉雅也さんとの対談動画のなかで、千葉さんがつかった「メンテナンス」という言葉に共感して、千葉さんに「メンテナンスの哲学」を書いてほしいと話していたけど、流れに関してはこの言葉を聞いて合点がいった。坂口さんは、水道管の話をしていて、そのなかに流れている水がうまく流れていくように細かいメンテナンスをしており、それは千葉さんも同じことをやっている話をしていた。これは、自分という水道管には、生体的には血液だったり、意識的にはノリだったり、そういった流れていく水を、止まらないように流れるように、それを阻害するような水道管のサビや油汚れを細かく取り除いていく、そういう作業をイメージすればいいんだと思う。一人で考えてはだめだとか、そういうのは詰まっているからそれは取り除いたほうがいい、という流れのメンテナンスという観点で考えると、わかりやすい。先の対談動画でも、坂口さんは自問自答はするけど、止めないんだと言っている。直截にいえば、止めない形で自問自答をする。いまこう書きながら書いているのは、止めない形で自問自答をする実践なのだ。流していく。でもそれは便所のらくがきではない。ひとつの表現の萌芽にもなるのだと思う。だから、だから? 水道管でイメージすれば、このように書いているのは、ちょこちょこと管のなかをけずっていき、どこなんだろうなあとさぐっていく、そういう過程なんだと思う。たぶん自分の問題が自問自答してしまうのは、水道管であれば、現実に空間として物理的に存在しており、目に見えてなにかがあり、また坂口さんの重要なキーワードとして「量を知る」の観点でいえば、水道管に流れる水量はどのくらいの立米となっていて、健康そうに流れている、すくなくともそう思わせるものは何立米流れているのかを具体的に知り、それを目指してわたしのなかの立米を確認し、つまらせているものをメンテナンスしていく、そういうことなんだと思う。ちょっとずれたのだけど、内面や努力というのは空間的物理的に把握できないから、たぶん取り扱いづらいので、形やものにし、文章であれば文字にし、それで把握していく。目標にしていく。それは、流れることが大事で、またそれがたのしいからだ。いまnoteでは2,238文字を書いているけど、それがたのしいのだ。ランニングしていくと楽しいみたいなもので。その感じを掴むことが大事なのだと思う。
ふたつ、経済を整体する
わたしは、この言葉に結構感動してしまった。まず、紹介されていることを書けば、『Pastel』出版時に初版印税を受け取らず、かわりに特装版を30部もらい、絵をつけて売るということをやることで、坂口さんも出版社も楽しくなることをやったと、そういう話で。そのことに対し、それは自己投資なのだ、凝り固まっている経済を整体し、ほぐし流してあげ、それをもとに戻す営みなんだと。じしんの経験からふたつのことを考えた。まず、編集者としての経験から、うわーすごいなあと。そんなことができるんだと。翻れば、これは経済活動の基本というか、相手のほしいものと自分のほしいものの折り合いを、折り合いという言葉はただしいのだけど正確に伝えれられなくて、なんだろうなあ活性化というか、WIN-WINだと安っぽい、シナジーって仕事では使いがちで恥ずかしいんだけど、まあ坂口さんの言葉でいえば、お互いにるんるんってことです。るんるんで思い出したのだけれど、自分はオノマトペで話すことが多くて、ぐいーっとか、ぐわっととか、ずーんとか。なんとなく空間の音声化をしているなって思っていて、それは自分の特性だろうと、意識したいなって思っている。おわり。で。お互いにるんるんってなることを生業としたいなと思ったのだ。ふたつめは、自分が仕事をやっているなかで、特に会議とかで、このタイミングでぶちこむことで、ぐいっと会議の流れがよくなるっていう瞬間を見計らって喋ったりするときがあるんだけど、自分やっているじゃんと、そう思った。ああ、そうか、あの会議をビオトープとして、みんなの意見の不可逆な流れというものをつかみ、虎視眈々として、いざっというときにえいやと投げ込む。こういう感覚が私にもあったし、これって楽しいよねとも思うのだ。なんでだろうね。翻って、自分じしんのなかでもやればいいんだと思う。つまり、自分のありかたの不可逆なながれを、ときどきにえいやっと介入していく。そういうファシリテーターとしての自分を、会議室のはしっこに置いておき、「ちょっといいですかねぇ」などと発言させる。そういうイメージをもつこと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?