ダンテ「神曲」地獄篇 第4歌 辺獄

皆さんは、「死後の世界」を信じますか?

今回は、信じている方の中でも、地獄の底で苦しみ続けたくない方、必読のパートです!

実際に第4歌を読んだ私なりの感想と考察を書いていこうと思います。
もし興味のある方は是非『神曲』読んでみてくださいね(^^♪


第一の圏谷 辺獄(リンボ)

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ダンテとウェルギリウスが地獄に入って、まず出会う人。それは「キリストの洗礼を受けていない者たち」でした。

洗礼を受けなければ地獄行き…。ということは、天国に行くためには、洗礼を受けなくちゃいけないってこと!?

…はい。少なくともこの小説の世界では、そうなりそうです(-_-;)

ただ、このあと詳しく書きますが、地獄のなかでも最も苦しまずにいられる場所が、この第一の圏谷(たに)です。

最後まで諦めずに第4歌を読めば、洗礼を受ける予定のない方にも救いがあると信じ、ここは粘り強く読み進めます。


ところで、辺獄にいる人たちは一体何をしているのかというと、ひたすら悩んでいます。彼らは崇めるべき神を崇めなかったことで天国に行けず、(悲しみのため息をつきながら)悩み続けているのだ、とウェルギリウスは言います。

そしてここは、森の中。

森、と言えば、ゲームでよくある名前「迷いの森」として、ゼルダでもポケモンでも出てきます。「迷うこと」と「悩むこと」は意味こそ違いますが、人間のよくする所業の一つです。
あとは現実世界だと「青木ヶ原樹海」とかですかね。私は実際に行ったことはありませんが、自ら命を絶ってしまう人が多い場所としてよく聞きます。これまでにたくさんの悩める人々が、その森へ足を運んだのではないでしょうか。あの豊かな自然の中には、今も多くの魂が眠っていることでしょう。

そして辺獄の森には、悩みを抱えた魂たちがひしめき合っている、とダンテは言います。私の脳内で、その魂たちが森の影を一層暗く染めているような情景が浮かびました。



地獄の中の天国

そんな辺獄を進んだ先にあったのは、7重の壁で囲まれた、大きなお城でした。

この広場に住んでいる方々こそが、歴史に名を遺す偉人たちです。
例えば、古代ローマの名将カエサル。または特に有名な哲学者を挙げていくと、アリストテレス、ソクラテス、プラトン、デモクリトス、タレス、ヘラクレイトス、ゼノン、キケロ、………等々。中には神話に出てくる者もいます(エレクトラやオルフェウス)。

例なので数名でいいはずなのですが、少し書きすぎてしまったので、この中から何人か聞いたことがある名前があると嬉しいです(笑)

彼らはキリスト教以前に生まれているので、洗礼を受けられなかった、ということからこの辺獄にいるのでした。


さて、この広場ですが、森の中の雰囲気とは異なっています。たくさんのため息と悲しみの声で包まれた森の世界からは分けられ、広場には物言わぬ偉人たちによって、静寂がもたらされているのです。

ここで、第4歌のうちの一節を引用します。

だからといって、すべてを細かには述べられない。
長い(詩の)題目がわたしをかり立てているし、
言葉はときには事実に及ばないことが多いのだ。

偉人たちの様子を見て、ダンテが書いた一節です。

彼もまた、偉人たちと同じように、最低限の言葉で私たちに広場の様子を教えてくれたのでしょう。



7つの城壁が意味するものとは

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森とお城の広場を分けているのは、高くそびえる7つの壁。

キリスト教では7は神秘的な数字のようで、私が読んでいるこの本の注釈では、7重の城壁の意味は「4つの徳と3つの知恵の表象」と考えられている、と書いてありました。

ですが、私は敢えて、ちょっと違う考え方をしたいと思うのです。

注釈ではさらに()内で、4つの徳が思慮、公義、剛気、節制、3つの知恵が聡明、知識、叡智、とありました。


「なるほど、よくわからん」

そう思った私はグーグル先生に尋ねます。すると、Wikipediaよりこんな回答が。

七元徳(しちげんとく)とは、カトリック教会の教義における7つの基本的な徳をいう。
古代ギリシアの知恵、勇気、節制、正義の4つの枢要徳に、『新約聖書』のパウロの手紙に見られる信仰、希望、愛の3つの徳を加えたものである。 
(Wikipedia「七元徳」より一部抜粋)

広場の偉人たちはキリスト教徒ではないことから、このうち信仰、希望、愛の3つの徳は当てはまらず、代わりに知恵がある、ということのようです。

その解釈は、それで間違いないと思います。その上で、私が気になったのは、3つの知恵のうち、聡明と叡智が類語である、というところです。

わざわざこの言葉たちを分ける必要があるのか。そもそも、4つの徳のうちの1つ、思慮(グーグル先生によれば知恵、日本語訳なので何とも言えないが)に、3つの知恵は包含されているのではないか。



私ならこう解釈する

そんな疑問から、私が考えた解釈は「キリスト教徒でなくとも、偉大な者には3つの徳(信仰、希望、愛)が彼らを包んでくれるのではないか」という考え方です。

なぜなら、私はキリスト教が「開かれた物語」であると信じたいからです。

ただ、この考え方には私の主観が入ってしまっているので、あくまで一個人の意見として書いておきます。

そしてここに開かれた物語について書くと、文章が長くなってしまうので別で書いておきます。



解釈次第では、救われるかもしれないというのはこのことです。

もちろん、偉大な人間になるためにはすごいことをしなくちゃいけない、と思うかもしれません。

ただその考え方も人それぞれで、何かを成し遂げたり他人に良い影響を与えられたりできれば、それってかなりすごいことだと私は思います。


そして、ここまで話してきて思いました。


そもそも、信仰していないなら、こんなこと考えなくていいのに!!



…それでも私は、死後の世界で苦しみたくない(°▽°)


それでは、またお会いしましょう*°


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