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恋とピアノと私 #13

世界は暗転する。

照明の落とされた客席で、僕らは暗がりに引きずり込まれる。

まるで夜の海に迷い込んだような心地だ。

やわらかなシートに身をゆだねる。深く腰掛け、背をもたれる。足は投げ出し、手は膝の上で組む。ゆったりと息を吸い、胸をふくらませたら、口をとがらせるようにすぼめ、またゆったりと吐き切る。

客席の空気はほんのりと冷たいが、観衆の熱気があたりに満ちているせいか、あるいは隣に座る彼女のせいか、寒さを感じない。

むしろ、体はほてっている。指の先まで、じんわりと温かい血が通っているのが分かる。胸の真ん中に強い鼓動を感じる。


前方、明々と照らされたステージが、まぶしく光る。いまやこの世界の中心であり――あの場所こそが世界のすべてだと言っていい。

僕らは、あのきらびやかな舞台を、暗がりの中から眺める観察者であり、演奏を見極める評価者であり、いずれあの舞台に立つ当事者でもある。

緊張と興奮と平静の気持ちが混ざり合って混沌とする。


演奏者たちが登壇する。

客席から目を凝らすと、不思議なもので、演者のわずかな仕草や表情がよく分かる。

触れたせいで、かえって乱れる髪。ぎこちない歩き方。

きょろきょろと動く、せわしない視線。強張った肩。

ひきつって笑顔にさえ見える口元。

つばを飲み込むのど元は、ごくりと、その音まで聞こえてくるようだった。

一挙手一投足すべてが、演者の気持ちをじかに伝えてくる。


舞台上の演者が、自分の姿に重なる。

過去の自分。未来の自分。

見られる。何百という観衆に。評価され、賞を与えられる。

ひとりで楽しく演奏するのとは、根本的に違う。

見られているという意識を、どれだけ演奏に生かせるか。表現力に昇華できるか。やらねばならない。自分で選んで立つことを決めた、その舞台なのだから。


舞台上の演者たち。

準備が整ったようだ。銀色の管楽器に、スポットライトが反射する。もう引き返せない彼らは、ついに意を決する。楽器をかまえ、口を添える。大げさに目配せを交わし、リーダーが決然とアインザッツ(合図)を繰り出す。

世界に音楽があふれ出す。


(続く)