見出し画像

番外編~台湾旅行~

台湾旅行記

 三月にK氏から富士ツーリスト企画の中国「雲崗石窟の旅」に行かないかと誘いがあった。雲崗に関心はあったが、私は中国のホテル設備、食事、対日感情の面で不安があったので、親日的と言われる台湾はどうかと提案したら、即、良いと言われ「人気五都市を巡る台湾周遊四日間の旅に出掛けた。(帰りの便の遅れで実際には五日間の旅となる。)

6月19日(火)
出発
 早朝四時に起き、セントレア行き東名バスの浜松北5:38発のバスに乗るため、遠州鉄道の始発では間に合わないので、軽トラで4:50に家を出て、バス停近くの遠鉄の駐車場に向かう。バス停には既に洒落た帽子をかぶったK氏が来ていた。バスはほぼ満席状態で、ウイークデイなのに、なぜこんなに飛行機利用者が多いのか話題に上った。7:35 中部国際空港に着いた。9:55発台北行きのチャイナエアライン151便に乗る予定だ。空港内のJTB旅行社カウンターで搭乗券を受け取り、チャイナエアラインカウンターにてチェックイン手続きを済ませ、出国審査後、搭乗ゲートへ向かう。搭乗ゲートを確認してから空港内をぶらつく。ベトナム旅行の時は四時間も待たされたことを思い出す。今回はほぼ定刻どおり出発(離陸10:20)。

到着
 台湾桃園国際空港タイペイ着陸13時。現地時間は日本時間から丁度一時間引いた時間だから12時到着ということになる。入国カードに記入し入国審査を済ませてから、台湾銀行(桃園国際機場分行)で二万円両替する。レート0.266で5,322元、そのうち30元手数料で引かれ、5,292元となる。元を四倍するとおよその円になる。出口に向かうと、JTBの現地ガイドが迎えてくれた。今回のツアー参加者は私達二人以外に二組の夫婦で計6人のようだ。空港建物の外には8人乗りのフォルクスワーゲンのワゴン車が待っていて桃園(タオユアン)駅に向かう。
新幹線で高雄へ
 そこから13:10発日本製の新幹線で高雄(カオション)に向かう。今回のツアーは一気に台湾南に移動し段々北に向かうコースをたどる。
高雄まで310 km、1時間45分掛かる。新幹線の室内は日本と全く同じ、運行時間も正確で快適である。台湾の人は日本人と顔かたちで見分けはつかず、表示も漢字で日本にいるようだ。台北の人口は270万人というから大阪市と同じぐらいの大都市だ。都心から少し離れても高層マンションが立ち並んでいる。新幹線は海岸から離れた山側を走っている。山は3,000 m級の山が連なり、冬には雪が積もるので水が豊富だ。町並みが切れると広い水田地帯が広がる。三毛作が可能だ。15:00高雄に到着。
高雄見学(蓮池譚、龍虎塔、寿山公園)
 高雄でも待機していた八人乗りワゴン車に乗り込み、いよいよ観光開始だ。最初に行ったのは蓮池譚、龍虎塔だ。

 龍虎塔に渡る曲がりくねった橋の下には蓮の花が咲いている。雨の中、折りたたみ傘をさして、龍の口から入り、雨に濡れて滑りやすい階段を慎重に歩き塔の最上階まで昇る。湖上には中国らしい建築物が浮かび、良い眺めだ。帰りも慎重に降り、虎の口から出る。龍の口から入り虎の口から出ると良いことがあるらしい。今回の旅はきっと楽しい旅になるに違いない。龍虎塔のそばの立派な中国様式の寺を見てから車に戻る。

 次に向かったのは寿山公園。高雄湾を一望できる高台にある。園内には戦没した英霊を祀る忠烈祠がある。日本統治時代は神社であったが今は中国風に改築されている。
 昼食は機内食だったのでお腹が空いただろうと夕食は台湾海鮮料理店へ。テーブルに着くとK氏が「これから一緒に旅するので自己紹介しないか」と提案、自己紹介で急に6人の距離が縮まる。さすが優秀な営業マンだっただろうことを滲ませる。
 今日の宿泊地:ホテルキングダム(華王大飯店)で荷を解き、軽装に着替え、夜市を見に行ったが、雨が降っていて、店も人も普段より少ないのだそうだ。早々に宿に戻り、一日目を終える。

6月20日(水)
台南 (安平古堡、赤崁楼、延平郡王祠)
 8:30 ホテルを出発し、台南市に向かう。途中土産店に寄った折、ホテルの部屋の鍵をフロントに返し忘れたことに気づき、現地ガイドさんにその旨申し出たら、土産店からホテルに返して頂ける事になりホッとする。高雄から台南まで50 km、一時間で到着する。台南では、最初に安平樹屋(あんぺいじゅや)に行き、拝観料を払って中に入ったが、敷地内に雨水が溜まって歩けない。吸水ポンプで排水しているが、すぐには治まりそうもないので結局見学は諦める。近くのコンビニのような店でビニールカッパを買うことになった。梅雨前線が台湾まで延びているのだろう。今回の旅は雨に祟られそうだ。

 次に向かったのは安平古堡(あんぺいこほ)。1624年、オランダがここ安平を占領し、防御要塞として熱蘭遮城(ゼーランディア城)を1634年に完成させ、その遺跡として外城南側のレンガ壁が残っている。オランダ占領以前は原住民が住んでいたが、台湾が歴史を刻むのはこの時からであり、台湾の歴史は三百余年と新しいという事実を知り得たことが、今回の旅で最大の収穫だった。それまで中国が手を出さなかったのは風土病があったからではないかと推測されている。
 昼食は台南名物担仔麺を食べる。
 次に向かったのは赤崁楼(せっかんろう、プロヴィンティア城)。ゼーランディア城がオランダ総督の統治の中枢であったのに対し、プロヴィンティア城は行政と商業の中心として機能していた。洋風建物の城壁は砂糖水、もち米のとぎ汁、カキの殻を灰にした物を混ぜた接合材を使い赤レンガを積み上げて厚く堅牢に出来ている。清朝統治時代には中国風楼閣が出来、現在は歴史資料館になっている。

 赤崁楼から10分も離れていない所に延平郡王祠がある。オランダ支配から台湾を解放に導いた民族的英雄である鄭成功を祀っている廟である。ここを最後に台南を14:00に出発し、台中に向かう。158 km、2時間10分の移動だ。
台中(寶覚寺、宮原眼科)
 寶覚寺(ほうかくじ)には、全長約30 mの金色大仏がある。日本統治下の1928年に建設された。日本人の墓地にもなっていたようだ。満面の笑みを浮かべにこやかである。鎌倉の大仏様とは大違いだ。宗教性があるなら、にやけた顔より鎌倉の大仏様のような顔にしてほしいものだ。大黒様だと思えば良いのかな。

 台中駅の近くに宮原眼科がある。宮原眼科が観光スポットになっているのは、日本人が開業していた建物を御菓子屋に改装したレンガ建築の建物もさることながら、アイスクリームのトッピングを自由に選べると言うのが人気で待ち客の列が出来るほどだ。私はフルーツでトッピングしてもらった。宮原眼科から台中駅までぶらつく。夕食は台湾客家料理だったが、客が180人ぐらい入っていて、会話は大声を出さねば聞こえないので更に大声になる。その喧騒の中で私たちは会話にならないので静かに食べた。
 宿泊地はパークシティーホテル台中民権。ホテルに戻ってから相棒と台中駅付近をぶらついた。ベトナムに行ったときのようなドキドキ感はない。日本の街中をぶらついているのとたいして変らない。生活、文化に大きな違いはないのだと感じた。

6月21日(木)
今日は台北への移動日で、台中駅発10:00の新幹線に乗ることになっているので、朝はホテルロビーに8:50集合でのんびりできる。朝食後、街をぶらつき、公園内を散歩したあと台中駅に向かい新幹線に乗り、台北駅10:59に到着した。

台北(龍山寺、中正記念堂)
 龍山寺は清朝時代に建てられた台北最古のお寺である。仏教寺院だが道教、儒教の影響も受けている。彫刻,陶器掛、瑠璃細工など芸術的に高く評価されている。屋根の飾りは見事なものだ。地元住民の信仰も厚く参拝者が多い。

 中正記念堂は中華民国初代総統蒋介石の銅像を祀る記念館だ。「中正」は蒋介石の本名である。建物、像の大きさにびっくりする。これは中国の伝統的な宮殿陵墓式に則って建てられているという。丁度、一時間毎に行われる衛兵の交替式をやっていた。交替が終わった後は、直立不動の姿勢で微動だにしない。私の絶対したくない仕事は東京タワーの先端の電球を換える仕事だが、この衛兵という仕事は二位にランクインされた。

九份
 この後、昼食の台湾料理を食べ、台北から50 km離れた九份へ向かう。一時間で到着する。九份は清朝の終わりごろ金が発見され中国本土からも多くの人が渡ってきてゴールドラッシュに湧いたが、1900年半ばから徐々に採掘量が減り、1971年閉山し、静かさを取り戻したが、2001年公開の「千と千尋の神隠し」に登場する湯婆婆の湯屋を彷彿させるとして話題に上り、また日本統治時代の建物も残っており、人気の観光スポットになった。人がごった返して人気度を実感する。金鉱の資料館の方は閑古鳥が鳴いている。一時間半の見学の後、また台北に戻る。(17:40)  

 台湾での夕食も今晩が最後になる。今日は広東料理でビールもうまい。食事後、宿泊地のユナイトホテル(統一大飯店)に入る。一休みして、夜の街をぶらつく。K氏が台湾でも携帯が使える契約をしたのでGPS機能も使え、迷う心配がないので、大胆に気の向くまま歩く。街の灯りも途絶えた橋の手前で引き返した。帰りの道すがら、旅仲間の一組の夫婦は私たちとは別のホテルに泊まっているので、ホテル検索すると、私たちのホテルより5、6千円高いランクのホテルであることが解る。夫の退職記念旅行だというから、良い思い出にしようとの思いが感じられる。

 現地貨幣を残しても円に両替したらいくらにもならないので、全部使ってしまおうと、ホテルの前にあった足仙養身館で500元だして足ツボマッサージをしてもらった。今日は万歩計が二万余を示すほどよく歩いたので疲れている。最初15分ぐらい足を温湯に漬けてからマッサージに入る。親指を第一関節のところで曲げ、関節部の骨の部分を足ツボの急所に押し当てるのだが、場所によっては飛び上がるほど痛い。一時間弱で終わったが足の疲れがとれたようなスッキリ感がある。後でK氏に聞くと「わしの方はただ撫でているだけでなにも痛くなかった」という。多分素人だったのだろう。店も事前に調べてきちんとした店を選ぶべきだった。ホテルに戻り風呂に入り、明日は帰国する日なのでトランク内を整理し、寝床に入る。

6月22日(金)
 今日も朝起きて朝食を取り、街中に散歩に出掛けた。朝市の通りで最後の80元でマンゴーを買った。ホテルに持って行ってもナイフはないので、切ってくれと頼んだら、皮を剥き始めた。果実のカーブに沿って上手に剥いていく。それを見ていて後悔したが時既に遅し。皮を剥く老人は手も洗わずに果実を撫ぜくり回している。剥き終わるとビニール袋に入れてくれた。ホテルに帰ってK氏に勧めると「わしはいい」とつれない返事が返ってくる。しょうがないので、水道水で洗い、更にペットボトルの飲料水で洗って食べた。あまり美味しい気はしなかった。
台北(故宮博物院)
 ホテルからワゴン車で故宮博物院に行く。故宮博物院は中国歴代王朝の皇帝たちが収集したコレクションを国民党蒋介石が共産党毛沢東との間で内戦状態になり、形勢不利になり、台湾に移転した時持ち込んだものが基になっている。69万点以上の至宝を収蔵する中国文化と芸術の殿堂で常時約2万点が展示されている。私は上野の国立美術館で故宮博物院展が開かれたとき、ツアーに参加して見に行ったが入るまでに長蛇の列ができて炎天下のなかで三時間待たされたのを思い出す。その時の記憶に残っているのは「翠玉白菜」である。ヒスイ輝石の天然の色合いを生かし白菜を表現している。また「象牙透彫雲龍文套球」は親子三代が百年掛けて彫り上げた多層球で信じられない技だ。

 一番ショックだったのは皇帝がアヘンを吸引する部屋とその道具が展示されていたことだ。中央の大きい椅子状の台に座り、吸引するのだそうだ。これでは清が滅びるのも無理はない。全部見るのは無理なので掻い摘んで見る。昼食は台水楼で小籠包と上海点心を食べる。昼食後、空港へ。

 帰りの便は台湾桃園国際空港台北17:05発、中部国際空港21:00着の予定であったが、搭乗予定の飛行機が出発時間ごろ着陸し、荷降ろし、荷積みに時間がかかり、18:35頃離陸したのでセントレアに着陸したのも22時を過ぎていた。
 税関通過22:35、荷物受け取り22:45、急いで23:00のバスに乗ろうとバス停に走ったが、22:30のバスが最終で途方に暮れる。兎に角どこか泊まるところを探さなければならない。常滑線で名古屋近くまで行こうと神宮前までキップを買う。神宮前で降り、タクシーに乗り込み運転手に近くのホテルに案内してもらう。宿も決まりホッとする。宿で撮った一枚は疲れてグッタリしているはずなのに、なぜかモナリザの不可解な笑みと同類の笑顔だ。明日と言っても、もう23日だ。あとは一寝入りして電車に乗って家に帰るだけだ。

6月23日(土)
 朝、ゆっくり起きてホテルを出、近くの喫茶店でモーニングサービスを注文し、食べ終わって10:30の電車に乗り、浜松駅に着いてからタクシーに乗り帰る。浜松北の駐車場は22日までの契約だったが特に問題はなかった。

 旅行後談:飛行機の遅れで一泊することになり、旅行事故緊急費用として保険会社から6,160円受け取る。

戦後70年余経っても根強い反日的韓国に対し台湾はなぜ親日的なのか
 台湾、韓国とも日清戦争以後、日本統治下にあった。植民地統治は異民族を支配し、経済的利益を上げる為、資本を独占し、搾取する。資源があれば採掘権を奪う。不満から起こる暴動、民族独立運動を弾圧する。過酷な状況を強いたのに、なぜこんな差がうまれたのか。
 韓国の日本統治を考えると、昔、韓国は日本の先進国だったという事実が、統治の良し悪しにかかわらず韓国人のプライドを大きく傷つけている上に、同化政策でさらに傷つける。また朝鮮に対する経済政策は市場確保より、富の蓄積源でありまた、平等互恵によらず、略奪的方法による貿易を行い、朝鮮人の反感を買う所業を繰り返し、反日感情は蓄積されていった。その反日感情は戦後70年余たってもなお根強いのは理解できる。台湾でも同じようなことをしていたのになぜ親日的なのか。
 今回の旅行でひとつの視点が開けた。台湾の歴史の浅さである。

 台湾の歴史を概略すると
 台湾は先住民に加え明朝時代に中国人が移民を始め、清朝時代に中国領土となったが、古い統治機構も支配者もいなかった。
1624年
オランダが安平を占領し、防御要塞として熱蘭遮城(ゼーランディア城)を1634年に完成させた。台湾が歴史を刻むのはこの時からである。
1662年
鄭成功がオランダを破り鄭氏政権を樹立。
1683年
清朝が鄭氏政権を倒し台湾を編入するも、福建省の一部として、ほとんど手を入れなかった。
1885年
帝国主義列強の脅威にさらされ、台湾が軍事上重要拠点であることを認識し、台湾省に格上げ、劉銘伝は電気と電灯、電信、基隆-台北間鉄道敷設など急激に発展させる。
1895年
6/2 日清戦争終了後日清間で台湾主権授受の調印。日本統治となる。
(この直前4/17 下関条約調印後、日本統治に反対する唐景崧を大統領とする台湾民主国が樹立される。)
台湾併合にあたり、台湾人には土地を売って出国するか、台湾に留まり帝国臣民になるかの選択をさせた。
日本軍は台湾民主国との間で乙未戦争に発展。その後も、台湾島民と日本軍の戦闘は激化。
1898年
児玉源太郎が四代目台湾総督、後藤新平が民生局長になり、軍事力一点張りの鎮圧から「土匪招降策」をとり、保甲制度を復活させる。
この後、台湾縦貫鉄道建設工事着工、義務教育制度、上下水道整備(台湾の水を五日間飲めば死ぬと言われるほどマラリア、デング病等風土病が頻発し衛生環境が悪かつた。)が行われる。 
1904年
日露戦争開戦
1910年
日露戦争後の好況期に精糖各社が台湾に進出、この年、台湾糖業連合会というカルテル組織ができ、独占資本による台湾糖業支配が完成する。
1945年
敗戦により日本統治終了。蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍1万2千人と官吏200人が台湾上陸。中華民国軍による婦女暴行、強盗事件頻発。台湾人は政府軍に反発。
1947年
2.28事件が起こる。蒋介石は軍を増強、徹底弾圧し恐怖政治を敷く。 
1949年
国共内戦で敗れた蒋介石は南京国民政府を連れて移住してきた。
抵抗勢力、知識人、共産党員を徹底弾圧、役人の腐敗等が続き、台湾人は反感を持った結果「犬去りて、豚来る」と言わしめた。「日本人はうるさいが番犬になる。中国人は貪欲できたない。」と言われる原因は蒋介石の初期治世の乱れと稚拙さが、日本の厳しい同化政策(皇民化教育)はあったが不正は少なく帝国大学の創設や、インフラ整備等が評価されて日本統治を懐かしむ気持ちを生むことになった。
台湾の発展の歴史は1885年からと言っても良い。その中で日本統治下の50年は主要な歴史の一部分となりえたのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?