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哲学、ここだけの話(科学技術という言葉)

普段あまり意識されないことでしょうが、私達がよく使う「科学技術」という言葉。日本語では本当に当たり前に使われるのですが、元々は「科学」と「技術」という、それぞれに独立した言葉をくっつけたものです。「それぞれに独立した」と書きましたが、「えっ」と思った読者も多いのではないでしょうか。

科学技術という言葉は、科学と技術が別物である事を忘れさせるほどに、当たり前の言葉遣いとなっています。しかし科学と技術は別物です。少なくとも、人類の長い歴史の中では、それぞれに別の営みでした。

ちなみにこの科学技術という表現、英語では何というでしょう?

直訳すれば、science and technology? あるいは scientific technology?
どちらでもありそうですが、実際の英語で、こうした言い回しが、日本語の「科学技術」ほど使われることはないようです。つまり、これらはその適切な訳語ではない。

つまり英語では、科学と技術は、日本人が考えるほど一体化していないということです。では、どうして日本では、ここまで科学と技術が一体化しているのか。もちろんそれは、歴史のせいです。私達が今日語る「科学」は、ヨーロッパが生んだ近代科学で、それを日本人が受け入れたのは、近代以降の話です。つまり科学と技術が深く結びついて、しかもそれが富と軍事力にダイレクトに影響するという時代に、日本は科学を受け入れたのです。つまりその始まりから、科学は技術とセットになっていた。

日本人が自然科学系のノーベル賞を受賞すると、受賞者は、必ずと言ってよいほど「日本はもっと基礎研究に力を入れなければならない」と言います。そう、日本は、応用科学、「実際に役に立つ科学」にはお金を出すが、そうではない「基礎研究にはお金を出さない」。しかしこれもまた、上記の歴史からすれば、ある意味当然です。近代世界を生き抜いてきた日本は、江戸の終わりから終始一貫して、富国強兵が国是であり続けているからです。

私はよく、「日本人は科学を知らない」と言いますが、それは、日本人の多くが「科学とは技術が進歩するためのもの」と思っているからです。しかし科学が生まれたヨーロッパでは、長い間、科学と技術は別物でした。実際、万学の祖と呼ばれるアリストテレスの著作に、技術を論じたものはありません。おそらく哲学の歴史の中で、近代以前(二十世紀以前?)に技術を哲学の対象とした哲学者はいない。

歴史ということでいうと、古代ギリシアは、科学もしくは学問を生んだわけですが、それに続く古代ローマでは、技術が重要です。ローマの繁栄は、間違いなくその技術が支えた。私達日本人は、ギリシア・ローマと並べて語るのですが、両者の特質の違いが、どれほど重要なものかを知る人は、実は、とても少ない。

現代という時代は、歴史の結果ですから、歴史を学ぶことは、現代がどうしてこうなっているかを知ることです。逆に歴史への無知は、当然現代への無知となります。古代ギリシアと古代ローマの違いを知らないことが、現代日本人の大きな無知に帰結している。

ここまで書けば、もうおわかりでしょうが、日本人にとって「知」とは、富の源泉です。というか、富の源泉で「しかない」。学校教育が富国強兵のためであることは、明治の開国以来、変わっていません。こういった社会においては、科学の生みの親である哲学が、「単なるお飾り」となるのは当たり前です。

科学研究の世界ですら基礎研究が疎かになる国で、更に原理的な思考をしようとする哲学が、無用の長物となるのは、むしろ必然と言っても良い。

哲学そのものが無用の長物であるような社会で、同じ哲学研究者からすら「無用の長物」とみなされてしまう私の思索など、無用なものの最たるものなのでしょう。

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