見出し画像

哲学、ここだけの話(何のための授業)

大学という場は、専門知識を学ぶところだ、とよく言われます。大学にも色々ありますが、その実態はともかく、理念として、そこが専門的知識を学ぶ場であるのは確かでしょう。

恐ろしく多様化している理系の学問の場合、学部の教育だけでは専門的知識をカバーできず、大学院まで進むのが普通です。

他方、文系の場合、大学院に進むのは、ごく一部です。大半は学部の学びで終わる。つまりそれぞれの学問を四年学んで終わりです。

哲学という分野に限れば、まず一年、二年で外国語(たいていフランス語かドイツ語)を学び、二、三年生から外国語のテキストを読むというのが、それなりのレベルの大学で行われるカリキュラムでしょう。つまり「おぼつかない足取りでテキストをいくらか読んで終わり」というのが、日本の大学での学びということになります。

もちろん、オリジナルのテキストを読むだけでも、翻訳でテキストを読むことに比べれば、はるかに専門性は高い。しかし哲学の専門的知識というのをどのラインに置くか、というのは、難しい問題です。どこまでの知識を得れば、哲学を専門的に学んだと言えるのか。

日本の場合、まず何より大切なのは、外国語の読解力です。ドイツ哲学ならドイツ語、フランス哲学ならフランス語。それでどれだけの外国語文献が読めるか。そもそも自分が研究しているテキストを原語で読めないなら、専門家を名乗ることはできません。日本の哲学愛好家の多くが、このハードルのせいで、専門的な議論に参加出来ないのです(その点、たとえばフランス人ならフランス哲学のテキストを原書で読めますから、日本基準で言うなら、ただちに専門的な議論に加われることになります)。

こうしたことを考えると、日本の学部教育だけでは、哲学の専門知識は学べないことは明らかです。実際、学部レベルで行われる哲学の講義のほとんどは、どれもが入門書レベルです(ごく一部の大学では、大学院の講義と学部の講義が共通なので、学部生でも専門レベルの講義を受けることができますが、そんな大学はほんの一握りでしょう)。

ここで問題となるのが、「入門書レベルの知識」とはどういうものであるべきか、です。これは誠実な大学教員であれば、誰もが頭を悩ます問題です。しかも、これには決まった答えがない。なぜなら、入門書と言っても、そのレベルは学生によって変わるからです。同じ講義でも、ある学生は難しすぎると言い、別の学生は簡単すぎると言う。同じ教室でも、こういった差が如実に表れるのが、今の日本の大学です。では、どのレベルに合わせれば良いのか。

私の(一般大学での)講義は、原則、中高生でも理解できることを目指しています。つまり世間的な意味では、ほぼ専門性はない。難しい専門用語は使いませんし、専門的な議論に不可欠な細かい概念規定も行いません。と言うのも、哲学の概念というのは、すべての哲学者に共通ではないからです。デカルトの実体概念は、あくまでもデカルトのそれであって、ライプニッツの実体概念とは異なります。専門的な議論では、この差異を知っておくことは不可欠ですが、専門的な議論をしない人にとっては、ほぼ不要の知識です。不要というのは言い過ぎかも知れませんが、それよりも優先順位の高い「学ぶべきこと」がたくさんある。

もちろんこういう授業は、「専門用語を学ぶことが何よりも大事だ」と信じている学生には、不満が残るでしょう。しかしほとんどの学生が、「優先順位の高い学ぶべきこと」をまるで知らないという状況で、そうしたことを教えずに、専門的な知識を教えるべきなのかどうか。

たとえばデカルトについて話すとき、私は、講義の半分くらいを『方法序説』の冒頭の言葉に費やします。「良識は万人に等しく配分されている」という言葉です。デカルトといえばもちろんコギトですが、現代日本人にとっては、それ以上に、この台詞の方が重要な意味を持つと私は考えているのです。「これって、君たちの一人一人に、知性は等しく配分されているってことだよね」と言って。それを考えてもらうのです。

この問題にデカルトについての講義の半分が費やされる。こういう講義をすると、中には「さっさとコギトの話をしてくれ」という学生も出てきます。ちょっとデカルトをかじったことがあるような学生などから出てくるクレームです。哲学の専門用語をたくさん知ることが、哲学的だと考えてしまう人たちです(もしそうなら、現代の哲学ディレッタントの方がソクラテスよりも哲学的だということになるのですが!?)。

哲学の専門用語をたくさん知れば、賢くなるのか。そう思っている人はたくさんいるようです。もちろんそういった知識の習得に意味がないわけではありません。ハイデガーの語る「良心」について知ることにも意味はあるでしょう。しかし一般的な意味での「正義」についてまともな理解を持たない人間が、どんなにハイデガーの「良心」を理解しても、日々の生活の中で自らの行動を省みることはできないでしょう。

「知性」であるとか「私たち一人一人に等しく」とかいう表現は、そのまま私たち一人一人に訴えかけるものであり、さらに言えば、現代民主主義の根幹を形作る言葉でもあります。

日本の現状を見て、今の日本人に何が必要なのかを考えたとき、私は、何よりも「言葉を正しく用いる」ことが肝心だと考えています。それは理性的、知性的であるための基礎です。そう考えれば、哲学の授業が何を目指すべきかは自ずと明らかになると思われるのです。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?