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哲学、ここだけの話(問えない人々)

私は講義の最終回に、必ず質問の時間を設けます。
普段の授業では、しょっちゅう学生に問いを投げかけます。

問うということが、思考の始まりだからです。
つまり問いのない授業は、思考を促さない。

ところが質問の時間を設定しても、質問する学生は非常に少ない。ポイントを押さえた質問が出来るということは、それだけで、しっかりした思考が出来るということなのですが、そういう学生はとても稀です。

私が大学院に在籍していた時、そのゼミは、土曜の午後、四時間にわたって、一人の院生の発表とそれに対する質疑応答が行われていました。教授、助教授(今で言う准教授)、助手、そして博士課程三回生から修士課程の一回生までの院生全員がそろって質疑応答に参加するのです(当時は全部で十数名在籍していました)。発言は強制されないので、よく発言する者もいれば、滅多に発言しない者もいます。たくさん発言したからと言って成績が良くなるわけでもないので、発言するかどうかは、本人の意志次第です。それでも大半の院生が発言していたのは、そういった営みが、自分の思考力を高める大切な訓練だと理解していたからでしょう。

私はと言うと、おそらく最も頻繁に質問していた院生の一人だったと思います。議論好きは昔から、だったのです。

もちろん多く質問すれば良いというものでもなく、大切なのは核心をついた質問をすることでした。発表の核心をつかまえて、そこに切り込む質問をする。それが出来ないということは、大哲学者たちのテキストを読んでも、その核心が捕まえられないということですし、そこに適切な問いが立てられないということは、学術的に意味のある論文が書けないということです。

問いの立て方を理解しているかどうかは、思考出来るかどうかに直結します。つまりそもそも問いを発することが出来ない者は、思考というものが分かっていない。思考していない、ということです。私は講義中、ずっと、「考えろ」と言い続けているのですが、その最後に質問の時間を設定しても、質問がなかなか出てこない。これは私の講義が成功していないということなのでしょうが、それは必ずしも私一人のせいではないらしい。

聞くところによると、いわゆる日本で最高レベルといわれる大学でも、そうしたことが日常化しているようです。そういうところの学生たちは、難しい試験を突破しているので、テキストを読み解く能力に長けているはずです。事実、テキストはよく読める。しかし問題なのは、その先です。分かることのその先。

分かることのその先。
これを誰も教えない。

今の社会で評価されるのは、分かることです。答えを出すこと。答えを出せば○がもらえる。褒められる。評価される。そしてそこで終わる。

日本の学校教育は、おおむね大学進学がゴールです。大学に入学するための勉強が、日本人にとっての思考のモデルになっている。大学に入っても大半の大学生がやっていることは、○をもらうことですから、何も変わりません。それどころか学問の世界ですら、少なくない人々が、他人の評価を得るために、つまり○をもらうために論文を書く。しかし本当に問題なのは、テキストのその先、書かれていないことです。見えているものではなく、見えていないもの。

テキストに何が欠けているか。テキストの向こう側を見通す眼差しを持つこと。それを誰も教えない。

哲学の根本問題の一つに、存在への問いというものがあります。存在とは何か。

しかしそもそも、存在とは何かという問いは、何を問うているのでしょう?

この問いの意味は何か。そもそも、ここで言われている「存在」とは、「存在している」という動詞の意味か、「存在するもの」という名詞の意味か、どちらでしょう。こういった問いを立てれば、この問いが、ヨーロッパ語の伝統から生まれたものだということに目が行くようになります。それは、英語のbe動詞にあたるものへの問いだからです。印欧語におけるbe動詞は、ものが存在するという意味だけでなく、AはBである、という使われ方もします。つまりbeは、日本語で言う「存在」の意味に留まらない。

「存在への問い」というだけで、これだけの説明が必要です(もちろんまだまだ続くのですが)。しかし哲学の本を読んでいて、こういった問いと説明に自力で進める人はどれだけいるでしょう? この問いの意味を、さらに問う人はどれだけいるでしょう? 問われれば、多くの人がただちに、それに答えようとするのですが、そもそもその問いの意味がきちんと理解できていないなら、それに答えるための努力とは何なのでしょう?

他方、日常生活で、問いに対してその問いの意味を問うと、何か反則をしているように思われます。問いそのものに誠実に向き合っていないように思われるのです。しかし哲学の場合、問いへの問いは、問題への誠実な向き合いです。私に言わせれば、「存在への問い」というものを日本人に理解させるには、一冊の本が必要でしょう。ですが、そういったことを指摘する人がほとんどいない。ハイデガーという、存在への問いを問うたことで有名な哲学者の研究者は多数いるのに、彼らの書いたものに、こういった説明が付されていることはきわめて稀です。なぜなのでしょうか。それは、本当に存在への問いを問うているのでしょうか。存在への問いを理解しているのでしょうか。存在への問いを理解せずに、なぜハイデガーが語れるのでしょう? 

問いの不在は、思考の不在です。論文を読んでいても、問いが明確ではないものはたくさんありますし、当然、面白い内容にはなりません。

日本語には、学問という立派な言葉があるのに、人はまるで問わないのです。



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