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哲学、ここだけの話(論理的に話をすると)

日本の哲学アカデミズムで、誰もが理解できる論理で(と言うか、誰もが理解できなければ、それは論理とは呼べないのですが)議論を展開するとどうなるでしょうか。

高く評価されることは望めません。

日本最高の哲学者と呼ばれる西田幾多郎は、自らの思索の中心に「絶対矛盾的自己同一」という概念を使いましたが、矛盾とは「互いが相容れない」ということなので、普通に考えれば、「相容れないものが相容れる」と言っているわけです。これは、まさに矛盾。しかしその西田が、いまだに日本最高の哲学者と呼ばれている。

格好良く言えば、西田の議論は「普通の」論理を超えているのでしょう。しかしだとすると、それは「普通の論理」では理解できない。事実、西田研究の権威中の権威とされた上田閑照が「西田は分からない」と言うのを、私は何度も直接耳にしています。論理を超えた事柄は、どうすれば理解できるのか。上田が繰り返しほのめかしていたように、座禅が必要なのか。

同じく二十世紀の世界的哲学者として、ハイデガーがいますが、彼もまた、一般的な意味での論理を尊ばなかった人間です。ある時期以降、彼は、そうした論理のことを、彼独自の表現で「形而上学的思考」と言って、「それではダメなのだ」と言い出します(存在を思惟するには「別の思惟」が必要だ、と言い始める)。事実、そういった言葉遣いを始めてからの彼は、普通の論理でその議論を追いかけることが困難になります。

さらに言うと、ハイデガーは、そうした形而上学的思考、もしくは計算的な思考をユダヤ的なものと考えて、そこから反ユダヤ的言説を展開するようにもなります。つまり彼の反ユダヤ的言説は、浅はかな彼のユダヤ理解に基づいたもので、その点でも、思想家としての資質を大いに疑うべきだと思います。

「論理を超えた」と称したり、非論理的な言説を弄したりすると、それに「深遠なもの」を感じ取ってしまう人は後を絶ちません。それは、そこそこ頭が良くても変わりません。いえ、そこそこ頭が良いからこそ、「俺は頭が良いんだ」と調子に乗って、普通の頭の良さの基準である論理を侮るということにもなるのです。残念ながら、ものすごく多くの哲学研究者が、こういった錯誤に陥ります。あまりにも多くが陥るので、彼らは、自分たちへの批判を気にせずに済むのです(あいつらは、ハイデガーが分からない愚かなやつらなんだ、と言っておけば良いわけです)。

ヨーロッパでは、ハイデガーへの熱狂はかなり冷めていて、彼の思想に距離を置く研究者の方が多くなっています。今現在、世界で最もハイデガー研究が盛んなのは、ドイツ本国を差し置いて、日本ですが、「私見では」それは、決して褒められたことではありません(ここでも日本人ハイデゲリアンは、「ドイツの学者も落ちたもんだ」とうそぶいています)。私は、知性を重視する点において、古代ギリシアの申し子だと思っていますが、だからこそ、知性を重視しようとしない哲学には、正面から反対します。知性を重視しないということは、本人たちの意志がどうあろうとも、この国の知性軽視に一役買っているからです。

そういう意味では、相変わらず西田哲学が賞賛され、ハイデガー研究者が後を絶たないこと自体が、この国の知性の現状なのだと思います。

もちろん当の本人たちは、この国がどれほど知性を馬鹿にしているか、気がついているでしょう。彼らは、口をそろえて、「哲学が大事だ」といっているからです。しかしそこで言われる哲学は、論理に根ざした、学問の根っこである哲学ではありません。むしろ学問とは逆方向に向かい、結果的に反知性的なメンタリティを醸成する非哲学です。

私の言葉に耳を傾ける日本人学者などいないでしょうが、何十年かすれば、誰もが、私の言葉を理解するはずです。それは私が彼らよりも賢いということではなく、そもそもの話、知性に刃向かうことなど出来ないからです。もちろん私達人間の知性は、完全でもなければ絶対でもありません。では、そういう有限の不完全な知性を「超えれば」良いのか。しかし「知性を超える」と言ったとき、「知性を超えた」という判断は何がするのでしょうか。一人一人が、悟るのでしょうか? だとしたら、それは、少なくともギリシアが始めた哲学ではありません。哲学が求めてきた「真理」でもありません。

<ちなみに論理的に最も根本的な問題についての議論を論理的に展開することは可能です。ただ、それを提示しても、上記のような人々には、「浅い議論」としか見えないようです。>






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