カンテレ奏者クレータ・ハーパサロKreeta Haapasaloのお話

 このnoteは、フィンランドの民俗音楽家、ペリマンニpelimanniたちのことについて書いていますが、今回は少し外れて、あるカンテレ(フィンランドの国民楽器)奏者について書きたいと思います。

 クレータ・ハーパサロKreeta Haapasalo(1813年11月13日*推定-1893年5月29日)。フィンランド民俗音楽にとって重要な場所であるカウスティネンKaustinen、ヤルヴェラJärvelä村の出身で、カンテレ奏者・歌手。

 そして昨日11月13日は、彼女の生誕208周年にあたります。

 クレータを一言で表す言葉には、いつも迷います。「中興の祖」という言葉には違和感を覚えます。ペリマンニたちの活躍と、彼らがもたらした新しい楽器、ヴァイオリンが台頭したことで、17世紀にはカンテレの演奏は一般的なものではなくなっています。

 1835年に『カレヴァラ』が出版されたことで、カンテレという楽器の存在は広く知られるようになりましたが、それはシンボルとしての認知であり、日常の中で、楽しみとして演奏される音楽の道具ではありませんでした。

 あえて文章で表現するなら、「カンテレという楽器と、それがどのように日常生活の中で用いられるのかをフィンランド中に知らしめることに貢献した女性」というところでしょうか。

 生誕日にあたり、彼女の人生、音楽家としてのキャリア、彼女が残したものなどを紹介できればと思います。

時代背景

 彼女が生きたのは、どのような時代だったのか。まずはそれを見ていきましょう。

 1810年代のヨーロッパは、ナポレオン一世によるナポレオン戦争の只中にありました。

フィンランドに近い国では、デンマーク王国はナポレオン側、つまりフランス側として戦い、スウェーデン王国やロシア帝国は対仏大同盟として参戦。

ノルウェーは当時デンマーク王国の統治下にあり、ナポレオン戦争の中で、スウェーデン王国に組み込まれることになります。ノルウェーが独立を果たすのは1905年。一世紀先の未来のことです。

 フィンランドの大地と人も、戦火と政治の波に翻弄されます。

 1806年、ナポレオンが提唱した大陸封鎖令にロシアが参加し、スウェーデンがこれを拒否したことから、ロシア軍はフィンランド南部に侵入。フィンランドのスウェーデン・フィンランド軍はこの戦争に敗北し、1809年、フレデリクスハムン(ハミナ)の和平が成立したことで、スウェーデンはロシアへのフィンランド全土の割譲を認め、フィンランドは、自治権を有する大公国となります。ロシア皇帝が元首となり、そのフィンランドにおける代理人としてフィンランド総督がおかれました。

 初代フィンランド大公国総督に就いたのは、啓蒙君主アレクサンドル1世Aleksandr I(ロシア皇帝在位:1801~1825)。1809年から1825年まで大公国を統治したこの君主は、しかしフィンランドをロシア化することなく、大幅な自治権を与えます。

「明らかにその理由は、フィンランドが、いくつかの点で、当時アレクサンドル1世の追求していた自由化政策の観点から一つのモデル地域として使われたことにあった」(クリンゲ 1994:57)

 以降、1917年のロシア革命まで、ロシアによるフィンランド統治が行われることになります。

生涯

 フィンランド大公国成立から4年目の1813年11月13日、クレータは、カウストビーKaustby教区(注1)のヤルヴィラJärvilä村(注2)で生を受けます。

 家は農家で、父はヤーッコ・マティンポイカ・ヤルヴィラJaakko Matinpoika Järvilä(注3)、母はリーサ・エリアセンテュテル・ビョルンLiisa Eliasentytär Björn。クレータは、3人兄弟の末っ子でした。

 ヤルヴェラJärvelä村は当時から民俗音楽が盛んで、音楽が日常生活やお祝い事の中で大きな位置を占めていました。音楽を演奏する者も大勢おり、クレータの親族の中では、母方の祖父エリアス・マッツソン・ビョルンElias Mattsson Björnに特に音楽家としての才能があったそうです。また、叔父であるユホ・ヴァンハタロJuho Vanhataloは、ヴァイオリンとカンテレ両方を演奏する音楽家でした。

 13歳になると、クレータは隣村ヴェテリVeteliに住んでいた姉夫婦の家に住み、農作業を手伝うようになります。農作業の合間に裁縫を覚え、家から家へ縫い物をして回ったそうです。夏は農作業、冬は裁縫。18歳になるまでそのような生活を続けた後、実家に戻り、お針子として働き始めました。

 1837年6月24日23歳の初夏、カウスティネンの伝統である大きな頭飾りを付けた婚礼衣装を身にまとい、クレータは結婚式を挙げます。お相手は、地元ヤルヴェラの農家の息子でヨーナス・タネリンポイカ・フントゥスJoonas Tanelinpoika Huntus(1814年4月13年-1890年5月20日)。6男5女、11人の子供に恵まれます。

1. (長女) マリアMaria (1837年12月13日生まれ)

2. (長男) ユホ・ヤーッコJuho Jaakko (生没年不詳)

3. (二男) ヨーナスJoonas (1841年6月22日生まれ)

4. (二女) アンナ=リーサAnna-Liisa (1842年12月10日生まれ)

5. (三男) マッティMatti (1845年1月23日生まれ)

6. (四男) アンッティAntti (1847年5月30日生まれ)

7. (三女) クレータ・ソフィアKreeta Sofia (1850年1月7日生まれ; カンテレ奏者))

8. (五男) カッレKalle (夭逝: 1852年3月5日-1857年4月10日)

9. (六男) ヘイッキ・クスターHeikki Kustaa (1854年1月18日-1922年2月1日)

10. (四女) マチルダMatilda (夭逝: 1856年3月8日-1857年4月7日)

11. (五女) トイニ・マチルダToini Matilda (1858年4月28日生まれ)

 新婚の頃は夫ヨーナスの家に住み、ヨーナスの両親の家の近くに小作地を所持していましたが、数年後、小作人としてケルヴィオKelviåに移住します。

 その後、夫婦は各地を転々とすることになります。1848年にヴェテリVeteliの牧師館が所有する小作地で働いた後、1850年にはカウスティネン近くの村ハルスアHalsuaに接するハーパサロHaapasaloに移住しましたが、長くは続かず、再びヴェテリのハガHaga、クリティラKritilä(注4)と住む場所を変えます。

 クレータが演奏旅行を始めるのは、この移住人生の途中、1853年のことでした。

 1869年にようやくハルスアのカッリオコスキKalliokoskiに家を買い、4年間をそこで過ごすことになります。

このように引っ越しが多かった理由は、何よりも、小作農から、自分の土地を持つ農民になりたかったからでした。そして、1866年から1868年にかけて起きた大飢饉(注5)があり、夫ヨーナスが小作農として定期的・安定的に働けなくなったことから、クレータがしばしば演奏旅行に出なければならなかったという事情がありました。

 1890年5月20日に夫が亡くなると、クレータは最後の引っ越しをします。

 娘ソフィアの家族と共にユヴァスキュラJyväskyläに移り、最後の時を過ごすことになるのです。

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注1: カウスティネンのスウェーデン語名。当時はまだスウェーデン語名が用いられていた。

注2: 原文ママ。スウェーデン語名かどうかは調べられていません。

注3: フィンランド人の氏名については、後日改めて掲載します。

注4: 所在地不明。なくなった地名と思われる。

注5: 天候不良(冷害、降雨)が続いたことによる飢饉。3年間の総死亡者数は27万人に上り、全人口の約8.5%が餓死。これは通常の死亡率を約15万人も上回っており、最も被害が大きかったのは、サタクンタ、タバスティア、オストロボスニア、北カレリアでした。

音楽家として

 ここまで、一人の女性として、クレータの生涯を観てきました。

 ここからは、音楽家としての彼女のキャリアを観て行きたいと思います。

 クレータの最初の音楽体験。それは、近所の老人が7弦カンテレを爪弾きながら、詩を歌っていた姿だといいます。

 6歳になると、ヴァイオリン奏者でカンテレ奏者の叔父ユホ・ヴァンハタロの手ほどきで、板の上に6本の弦を張り、楽器を自作。音楽の道を歩み始めます。最初の頃はヴァイオリンも弾いていましたが、すぐに辞めてしまったそうです。その後、彼女の才能に気づいた兄が、アルダー材と木ネジで14弦カンテレを作り、彼女に贈ったことで、いよいよ彼女はこの楽器に傾倒していきました。

 クレータは、カウスティネンに住む他の音楽家たちと同様、「環境」から音楽を学びました。それは、村のあちこちで聴かれる歌や演奏に耳を傾け、そらんじ、楽器を使って練習することでした。彼女には才能があり、意欲がありました。すぐに頭角を現し、上手な演奏家の仲間入りを果たします。

 しかし先述の通り、クレータは家族と共に各地を転々としながら働いており、その演奏が、地元以外の土地に知られることはありませんでした。子供が多く、貧しかったため、悩み事があるとカンテレを爪弾き、歌うようになりました。

 その歌を聞き、彼女に人前で演奏するよう勧めたのは、1848年に移り住んだヴェテリの牧師館の牧師、B. H. R. アスペリンB.H.R. Aspelinと、近隣の人たちでした。

 幼い頃からお針子として働いていたクレータは、仕立屋さんから「もしあなたのような歌声が私にもあって、カンテレが弾けたら、世界に出て人々の前で歌いたい」と言われたことがあり、自身その願望はずっと心に残っていました。カレリア地方出身で、全国的に知られていた吟遊詩人マッツ・ペンサルMatts Pensarも、彼女の憧れの存在でした。

 そしてついに1849年、クレータは次男ヨーナスJoonas、三男マッティMattiと共に、コッコラに演奏旅行に出かけることを決意します。

 旅は順調でした。コッコラでの初舞台では10ルーブル(注6)以上も稼ぎ、いわゆる「上流階級」の人々は、ぜひヘルシンキでも演奏するようにと勧めてもくれました。さらに1851年、船主をしていたAdam Langenskiöldとの出会いは大きいものでした。Adamはクレータにヘルシンキで腕試しをすることを勧め、身の振り方や、都会での振舞い方のコツを教え、首都ヘルシンキのフレンケル印刷所Frenckellin kirjapaino(注7)に持っていくための推薦状も、彼女に渡したのです。

 1853年1月、クレータはそりに乗り、ヴェテリの家を後にします。道連れは、数年前と同じ、ヨーナスとマッティ、それにカンテレ。39歳になったクレータは八番目の子供カッレを出産したばかりでしたが、母リーサがほかの子供たちの面倒を見てくれることになり、旅立つことが出来ました。

 ペルホPerho、リントゥラハティLintulahtiを経てユヴァスキュラJyväskyläにたどり着いた彼女たちは、家々を回り、古い民謡を歌い、カンテレを演奏して、ヘルシンキへの旅費を稼ぎました。その総額は、275ルーブルに上ったと言います。クレータの存在、カンテレの演奏は、フィンランド南部の人々にとって鮮烈なものでした。当時の地元新聞紙には、クレータが歌い、演奏する様子が克明につづられています。

 そうしてヘルシンキに到着したクレータは、「Helsingfors Tidningar」誌(注8)で編集者をしていた、作家で詩人のザクリス・トペリウスZachris Topeliusと会うことに成功します。彼女には、Adam Langenskiöldが書いてくれた推薦状という強い味方がありました。推薦状を渡されたザクリスは、「苗字は?」と彼女に聴きましたが、クレータは「ありません」と答えています。この時のクレータは、Kreeta Jacobsdotter(ヤコブの娘のクレータ)と名乗っていました。ザクリスは、彼女が当時住んでいた家、「ハーパサロ」を苗字とするよう彼女に助言し、クレータはこれを受け入れます。「クレータ・ハーパサロ」誕生の瞬間でした。

 ザクリス・トペリウスにとって、彼女との出会いは印象深いものであったらしく、1853年1月29日の日記に、このように記しています。

「貧しい家族がやってきた。痩せた女性が引くソリは、シェルターを求め、孤独な無力感の中でここを見つけた。この家族は、歌を歌うために60マイル以上も移動してきたのだ。この家族の母親の名前はKreeta Jaakontytär(注9)で、コッコラの自治体であるHaapasaloの農家の妻だった。

彼女には8人の子供がいて、その内2人は彼女と共に旅をしている。(中略) 彼女は39歳で、家族全員が生活できるのは、小さな砂地の農場だけだ。しかし、昨年の夏の大災害の影響で、母親は子供を養うために歌いに行かなければならなくなった。それでも、彼女は誰にも慈悲を求める必要はない。フィンランド人の詩と、その感動的な甘さを愛する心を持つ人なら誰でも、北の中心地で生まれた彼女の美しい歌を喜んで聴くだろう。

その美しい歌をどこから学んだのかと尋ねると、「悲しみから」と答えた。彼女は、自分や他人の歌を数多く演奏し、鈴のように綺麗に歌い、美しくしなやかな声を持っているが、訓練を受けてはいない。彼女の演奏は本物で、全く飾り気がなく、素晴らしい表現力に溢れている。ピアノの響きにカンテレを合わせると、メロディーがより力強くなるので、彼女は喜んだ」

 この日記が公開されると、ヘルシンキ中のサロンが彼女に門戸を開きました。他の新聞、雑誌も、悲しみや貧しさ、謙虚さを表現する歌い手として彼女を絶賛。ヘルシンキで5週間過ごしたクレータは、400銀ルーブルという大金を手にしましたが、二人の子供もクレータ自身もすでに故郷が恋しくてたまらず、またそりで北へ、家路へと向かいました。

 ヘルシンキへの旅の後、いくつかの演奏旅行を経て、民俗音楽家「クレータ・ハーパサロ」は、民俗音楽の先駆者として、音楽で生計を立てるようになりました。

 やがて、異母姉の娘プリータ・リーサPriita Liisa、三女Kreeta Sofiaクレータ・ソフィア、プリータ・リーサの娘サンナ=リーサSanna-Liisaとアンナ・クレータAnna Kreetaがクレータと一緒に歌い、演奏するようになり、5人のアンサンブルは、様々な編成でフィンランド全土を旅してまわるようになりました。

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注6: 金ルーブルか銀ルーブルか不明。

注7: 1642年に設立されたフィンランドの印刷会社。1700年代にフィンランド初の新聞を発行し、後に『カレヴァラ』やルーネベリの作品を出版。年次報告書など企業向け印刷製品に注力していましたが、2008年に倒産しています。

注8: 1829年にG.O.Waseniusによって創刊されたヘルシンキ初の私設新聞社。1841年から1860年にかけてZacharias Topeliusが編集長を務め、長く、フィンランドを代表する新聞でしたが、1866年には発行部数の低下が原因で廃刊となっています。

注9: Jacobsdotterはスウェーデン語名。Jaakontytärはフィンランド語名。

飛躍の時

 クレータは、演奏家としてだけではなく、人脈作りにも才能を発揮します。長年にわたり、ポルヴォーPorvooのルーネベリRuneberg家、サンクトペテルブルクのフィンランド総督、ストックホルムのドラマテン劇場Dramaten-teatteriやソドラ劇場Södra Teaterなどで、多くの文化人のために演奏を披露し続けました。

 ストックホルムでは、Gustaf Adolf Montgomeryというパトロンにも恵まれます。スウェーデン北部ノールランド地方のヴェステルボッテンVästerbotten州知事を退任した後、ストックホルムにあるフィンランド人協会「Finska Gillet」の会長に就任していた彼は、ドラマテン劇場でクレータの演奏を聴き、パトロンになることを申し出ました。

 有形無形の援助は続きます。

 フィンランド国民文学の父、アレクシス・キヴィAleksis Kiviは、自作の詩「Anjanpellon markkivat」の中で、彼女のことに言及します。

 スウェーデン系フィンランド人の「国民詩人」ヨハン・ルドヴィグ・ルーネベリJohan L. Runebergがポルヴォーで彼女のためのパーティーを手配すれば、スウェーデンの詩人、エミル・フォン・クヴァンテンEmil Von Qvantenは、ストックホルム王立劇場での公演を手配します。

 サンクトペテルブルクの帝国劇場でも、クレータは何度も演奏する機会を得ました。

 順風満帆。そのように思えた彼女の音楽家としてのキャリアの中にも、やはり悲しいことは起こります。

 1857年、ある日曜日、サンクトペテルブルクで、ふと家で子供たちがどうしているか考えた時、不吉な予感がした、とクレータは語っています。

 帰郷した彼女を待っていたのは、8番目の子供カッレと、10番目の子供マチルダの死でした。

「家に帰ってみると、同じ日曜日に、2人の子供が埋葬されることを知りました。喉の病気で亡くなったのです。それは本当に悲しいことでしたが、それでも私は、子供たちを神の元に連れて行ったことを感謝しました」

 後にクレータはこのように語っています。

 それでも、クレータの演奏家としての人生は続きます。

 1887年の夏、クレータの人生に新たな局面が訪れます。

"Greta Haapasalon, tunnetun kanteleensoittajan, on kansavalistuseuran juhlakomitea päättanyt kutsua Jyväskylän laulu- ja soittojuhlille."

「有名なカンテレ奏者のクレータ・ハーパサロが、人民合唱団の委員会からユヴァスキュラの歌と演奏のフェスティヴァルに招待された」のです。

 1887年6月13日午後1時から、「näkyi monen silmissä kyyneleitä」と題したコンサートが行われました。

「午後、才能豊かで話題になったカンテレ奏者クレータ・ハーパサロによるカンテレの演奏が行われた。このコンサートはLyceum Ballroomで行われた。ホールの一角には、フィンランドの風景の一部が作られていた。白樺やモミの木、その陰には、苔むした石が置かれていた。この緑の中で、カンテレを石に立てかけ、クレータ・ハーパサロ、娘のソフィア・ライサネンSofia Räisänen、姪のサンナ・プロラSanna Purolaの三人の音楽家が、シンプルなチョッキ、手作りのドレス、黒いスカーフに身を包んで立っていた。

カンテレから奏でられる最初の可愛らしい明るい音で、ホールや廊下のみならず、ホールの窓を開け放った向こう、中庭を埋め尽くした大勢の聴衆を魅了した。73歳という高齢にもかかわらず、クレータは、カンテレを弾きながら、時折震えるものの、年齢よりも感情によるものと思われる明るく力強い声で、数々の歌を披露した。

最初の曲は、他の曲と同様に自作の曲で、カンテレで生計を立て始めた頃のことを歌っていた。カンテレを片手に家々を回ることは、石を積んだ鋤を引いて歩くよりも大変な仕事だったと、涙を流しながら歌っていた」

 1890年5月20日に夫ヨーナスがこの世を去ると、娘ソフィアがユヴァスキュラに移住するのに付き従い、そこが終の棲家となりました。

 1892年まで続けた演奏旅行。翌年1893年3月29日、クレータは突然の心臓発作でこの世を去りました。今は、ユヴァスキュラの古い墓地で静かに眠っています。

 彼女が残したもの

 クレータ・ハーパサロの音楽は、彼女が作った数々の曲の中に残されています。クレータ・ハーパサロの存在は、カンテレという楽器をフィンランド中に知らしめた革新者として、また、民俗音楽の世界で伝説的な存在として認知され、今日に至っています。

 彼女の姿は、宮廷画家だったロバート・ウィルヘルム・エクマンRobert Wilhelm Ekmanによって絵画の中に残され、不朽のものとなりました。

農家でカンテレを弾くクレータ・ハーパサロ(Kreeta Haapasalo soittaa kannelta talonpoikaistuvassa)

 1954年、イルマリ・ヴィルッカラIlmari Wirkkalaが主なスポンサーとなり、カウスティネンに胸像が建てられました。また、彼女の故郷であるヴェテリにも記念碑が建てられ、1990年代初頭には、フィンランド政府は彼女の他5名の女性を称え、切手を発行しています。

クレータ・ハーパサロの音楽

 クレータのレパートリーは、スピリチュアルな歌、フォークダンス、バラッド、そして彼女自作の歌が中心で、多くが「悲しみ」をテーマにしています。

 さて、文字情報が続きましたので、動画、音源を聴いて頂こうと思います。

 Ulla Katajavuoriは、1930年代から90年代かけて活躍したカンテレ奏者です。38弦カンテレを用いて、数々の録音を残しました。

 以下は、クレータが作曲した"Mun kanteleeni kauniimmin"という曲を、クレータが使わなかった38弦カンテレを用いて編曲した動画です。

新進気鋭のカンテレ奏者、Maija Pokelaによる、クレータ・ハーパサロのポルカです。高名なペリマンニ、マッティ・ハウダンマーが彼女の演奏を聴き、覚えた曲が今に残っています。


(了)

参考文献

角田文衛 1955 『世界各国史6 北欧史』 山川出版社

百瀬宏 1980 『北欧現代史』 山川出版社

武田龍夫 1993 『物語北欧の歴史』 中公新書

マッティ・クリンゲ 1994 『フィンランド小史』 オタヴァ出版

Asplund, Anneli 1981 Kansanmusiikki Suomalainen Kirjallisuuden Seura

Toivonen, Esko, 1995 Viulujen ja naularistien KAUSTINEN, Gummerus Kirjapaino Oy

【web資料】

June Pelo "Kreeta Haapasalo, Kantele-Kreeta"

Statue for Kreeta Haapasalo

Svenolof Karlsson 2019 "Kreetan matka maailmalle" TEEMA POHJANMAA • 1 |



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