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コミュニケーションの道具としての言葉の力  —  理解と感情

「阿吽(あうん)の呼吸」とは、言わなくてもお互いにわかり合っているという意味で使われる表現。
そんな関係では、何かのおりに「ありがとうございました。」とお礼を言うと、「そんな水くさいこと言わなくても。。。」という返事が返ってくるかもしれない。

言葉で言わなければわかり合えない関係では、言葉を使ってコミュニケーションを図る。その場合には、「話せばわかる」という前提に立って会話をするのが基本である。
言葉は通じるものであり、そうでなければ、話し合う意味がない。

ところが、言いたいことが相手に伝わらないとか、誤解されたと思うことがある。
そんな時には、自分の言い方が悪かったのかと反省したり、相手の理解力のなさや勘の鈍さを責めたりもする。

では、なぜ言葉の意味や意図がスムーズに伝わる場合と、そうでない場合があるのだろう? 
そして、言葉が人の感情を動かし、喜ばせたり、傷つけたりすることがあるのは何故だろう?

話し手と聞き手の間のズレ

最初に、次のことを確認しておこう。
私たちが話したり書いたりするとき、頭の中で必ず音声がしている。何かを考える時、声に出さなくても、頭の中では、口から出すのと同じような音の連なりがしていて、その音が聞こえる。

そのことは、私たちが何かを思い、話し、書こうとする時、必ず自分の言葉の音声を自分で聞き意味や意図を理解していることを示している。つまり、最初に意味を確認するのは、自分自身なのだ。

そして、その意味や意図がそのまま聞き手や読み手に理解されれば、正しく理解されたと思うし、そうでなければ理解されていないと感じる。
従って、こう言ってよければ、「自分の頭の中にいる聞き手」と「実際の聞き手あるいは読み手」の理解が同じかどうかということが、正確な理解と誤った理解の基準になる。

「阿吽の呼吸」の関係であれば、二人の聞き手の間にズレはない。言わなくてもわかる関係であれば、言った言葉は話し手の意図通りに理解される。
「話せばわかる」関係にある場合、二人の聞き手の間にズレが存在する可能性はあるが、しかし、話すことによって二人の解読コードが類似したものになることが想定される。

具体的な例で検討してみよう。
「テレビがついてる。」(1)
「テレビを消して。」(2)

最初は「事実確認的」(1)な文、次は「行為遂行的」(2)な文だと思われる。

確かに、(2)の文は依頼あるいは命令であり、相手にテレビを消すという行為を遂行するよう促している。誤解の余地は少ない。

他方、「テレビがついてる。」(1)の場合、文の形としては事実確認だといえる。
しかし、話し手の意図は、本当に事実を確認しているだけなのだろうか? それとも、事実確認を通して、テレビを消していなかったことを指摘し、すぐに消すように促しているのだろうか? あるいは、それ以外の意図があるのだろうか?
このように、話し手の「頭の中の聞き手」が理解する内容を、会話の相手が同様に理解する保証はない
同じ理解に達するためには、それ以前に二人が同じ経験をし、二人の聞き手が同様の言語解読コードを持っていることが必要である。

ところが、話し手は、「頭の中の聞き手」の存在を意識していないため、自分の言葉が誰にでも同じように理解されると思いがちであり、そのために、違う理解をする相手に対して、怒りを感じたり、勘の悪い人間と見なしたりする。

「車が来た。」
この文も事実を確認しているだけのように見えるが、状況に応じて、「危ないから避けるように。」とか、「やっと来たから早く乗ろう。」という意味にもとれる。
この場合には、状況を共有していれば同じ理解に達する可能性が多いが、そうでない場合、理解の仕方は様々になる。

このように見てくると、話し手と聞き手の間に共通の経験があるか、あるいは共通の状況にいる場合には、「自分の頭の中にいる聞き手」と「実際の聞き手あるいは読み手」が同様の理解に達する可能性があるということがわかってくる。
また、「話せばわかる」は、二人の聞き手のズレを意識した上で、話すことで共通の基盤を作る作業だといえる。ズレを意識せずに話し続ける場合には、「わかる」に達しないこともある。

相手の感情を動かす

次に、言葉のもう一つの効果である「相手の感情を動かす」ことについて考えてみよう。

「テレビがついてる。」

この言葉は、事実を確認するだけとも考えられるし、テレビを消すようにという依頼や命令と理解することもできる。
テレビを消すように言っておいたのに消していなかったとしたら、いかにも事実を確認しているように言うことで、皮肉や嫌み、あるいは攻撃のニュアンスが込められているかもしれない。
「話し手の頭の中の聞き手」の理解がどのようなものなのかは、同じかもしれないし、その時その時で違う可能性がある。
相手から自分の期待した反応が得られれば満足するだろうし、ズレがある場合には、相手の鈍さを揶揄あるいは攻撃したり、イライラしたりするかもしれない。
感情の動きに規則性は少ない。

「実際の聞き手あるいは読み手」の方でも、どのような意味を読み取り、それによってどのように感情が動かされるか、一定の規則はない。
単なる事実認定だと考えると、感情は動かない。
皮肉だと思えば、テレビを消さなかったことをしまったと思うか、あるいは皮肉ではなく、「テレビが消し忘れだったので、次から気を付けるように」とそのまま言われた方がいいと思うかもしれない。
攻撃性を感じたら、それに対するプロテクトを考えるだろう。
このように、受け取り方は様々で、それに対する反応も違い、感情の動きも変化する。

感情の動き方が多様であることは、「意味の理解」よりも「感情を動かすこと」の方が、共通の基盤を持ちにくいことから来る。
そこでは、相手の反応が「話し手の頭の中の聞き手」の反応と異なることが多く、「実際の聞き手あるいは読み手」は、話し手にとって「他者」性が強いといえる。
その結果、言葉の効果を予見することが難しい。

解読コードを豊かにする

現代社会では、コミュニケーション能力が重視され、その開発のための様々な方法が提示されているが、その基礎として、言葉が「意味」を伝えるのと同様に、「感情」に働きかけることを知っておきたい。

また、言葉を最初に理解するのは、話している相手である以前に、話の頭の中を流れる音声を聞く話し手自身であることを意識しておくことも重要である。そのことで、「他者」は私たちの発するメッセージを「私たちの頭の中の聞き手」とは違う仕方で解釈することが前提となる。

内的な聞き手と現実の聞き手が解釈する意味のズレは、共通の体験や状況の共有によって小さくなる。
ただし、感情に関しては、意味の理解ほど、共通の基盤は生まれにくい。

逆にいえば、「他者」とは共通の基盤のない相手であり、「他者」とのコミュニケーションを重ねる体験が、自分の中にある見えない解読コードを豊かにすることにつながる。

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