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機動戦士ガンダム0090 越境者たち #7 再会のとき

 機動戦士ガンダムで描かれた、一年戦争の終結から10年後の世界、Zガンダムとは別の「もう一つの宇宙世紀」の物語を描く。拙作「機動戦士ガンダム0085 姫の遺言」の続編。
 ロンデニオンでは、かつてのホワイトベースの仲間がブライトとミライの家に招かれ、久しぶりの再会を果たす。サマー・キャンプを終えたカミーユは、宇宙港でアムロとセイラの見送りを受ける。ロンデニオンを訪れたベルトーチカ・イルマは、アムロ・レイとの接触を試みる。


1:再会のとき


 あれから5日後、ハヤト・コバヤシは<サイド5>の首都アレクサンドリアから<サイド1>に向かう船上にいた。ロンデニオンにいる昔のホワイトベースの仲間たちと再会するためである。そのときアムロを紹介する、と約束してしまったために、ベルトーチカ・イルマまで連れてくることになった。そもそも日時を決めて現地で落ち合おう、とハヤトは言ったのに、彼女はせっかくだから一緒に行くと言い出し、同じ便の隣の席に落ち着いている。ハヤトの方は、たいして親しくもない女性と始終一緒で、せっかくの夏の休暇だというのに心が少しも休まらなかった。
 そうは言ってもベルトーチカは話好きで、一緒にいて退屈はしなかった。こちらからは何も聞いていないのに、10代の頃は女優になりたかっただの、戦争でその夢がすっかり色あせてしまっただの、自分のことをいろいろと話し出したら止まらないのだ。
「それはそうと、あなた知っていて? この前、ロンデニオン行きの航路上に海賊が出没したんですって! エヴァーグリーン号っていう貨客船が襲撃された、って話よ」
「へー」とハヤトは目を丸くする。
「知らなかったな、そんな話。ニュースになってました?」
 彼女は人差し指を立てると左右に振って、いたずらっぽく笑った。
「いいえ、これは極秘情報よ。連邦軍はそのこと、ひた隠しにしているの」
「じゃあ、君はどうしてそのことを知ってるんだい?」
「ブレックス・フォーラ少将よ」ベルトーチカが、声を潜めて言った。
「あなたは、あの人のこと、左遷されて閑職に飛ばされたかわいそうなおじさん、って思っているかもしれないけど、そうじゃないのよ。ただ、そう見せかけているだけ」
「えっ? それ、どういうこと?」
 ハヤトは聞き返したが、彼女は答えず、楽しげな声で言った。
「久しぶりなの、ロンデニオン。楽しみだわ、古くて、洗練された街だもの。いいお店を知っているのよ、私、案内してあげるわ」
 ハヤトは安請負した自分を内心責めつつも、彼女の謎めいた一言にすっかり心奪われてしまっている自分に気がついた。

 ミライ・ノアはまだ幼い息子のハサウェイを連れて、ロンデニオンの宇宙港に来ていた。午後3時の到着便に、フラウ・ボゥとカツ・ハウィンが乗っているはずだ。この夏のはじめ、元ホワイトベースのクルーだった夫のブライトとアムロがロンデニオン基地に配属になったことで、ミライはこの機会に旧交を温めることを提案し、親しかったクルーに声をかけて自宅に招待することにしたのだった。ブライトは諸手を挙げて賛成してくれた。大佐となった彼は、ミライとハサウェイの3人暮らしでは持て余すほどの広さのある佐官用の官舎に暮らしている。遠方からの来客を迎えるのに、なんの不都合もなかった。
「ミライさーん!」
 懐かしい顔を思い浮かべながら感慨にふけっていると、彼女を呼びながら手を振る女性が近づいてきた。
「フラウ・ボゥ! それにカツも!」
 あの頃よりも少し髪を伸ばし、少し大人っぽくなった彼女が変わらない笑顔を見せている。7歳だったカツは、もう17歳になっていて、フラウよりも背が高いくらいになっていたが、少しもじもじした様子で、大人しく優しげなところは変わらない。一年戦争のとき、ジオン軍の急襲を受けて<サイド7>から脱出し、ホワイトベースに乗り込んだカツ、レツ、キッカの3人の子どもたちは、戦後フラウらとともにトーキョーの避難民居住区の施設に入り、今もそこで暮らしている。施設を出てトーキョーで暮らすフラウは、その後もずっと保育士として働く傍ら彼らの成長を見守り続けていた。
 フラウはミライの方へ駆け寄ってくると、手をつないで彼女を見上げるハサウェイを見て腰をかがめ、はじめまして、と笑いかけながら挨拶をした。そして立ち上がると、ふたりは思わず抱き合った。
「カツも、こんなに大きくなって…よく来てくれたわね」
「そうなの、みんなに会いにいくけど、カツも来る?って聞いたら珍しく、行きたい!って言って、アルバイトをすごくがんばったのよ、ね?」
「ぼくだって、ホワイトベースのクルーだったんだから、当然だよー」と、のんびりした口調は相変わらずである。
「それとね、セイラさんも同じ便だったの」
 ミライは、傍に立つ美しい金髪の女性が微笑みかけるのを見た。
「セイラ!」
 宇宙港の雑踏のなかで、一瞬、時が止まったようだった。
「来てくれたのね、会いたかったわ」
「あなたたちが助けてくれなかったら、私、まだジオンに囚われたままだったかもしれなくてよ? 会って、お礼を言わなければと思って」
「まあ」と、ミライとフラウは顔を見合わせた。5年前の夏、ジオンで起こったクーデターに巻き込まれ、囚われた彼女を救出するために、ブライトが動いたことがあった。
「私たち、アムロの連絡先を教えただけなのよ? そのとき、何が起こっているかなんてちっとも知らなかった。あなたが、ジオン・ダイクンの娘だったってことも…」フラウが言う。
「セイラさんのしたこと、とても勇気のあることだったと思うわ。こんなすごい人と一緒に戦っていたなんて、私今でも誇らしく思っているの」
「ありがとう、フラウ・ボゥ」少し照れたようにセイラは笑うと、みんなの顔を見回して言った。
「さあ、いつまでもここにとどまっているわけにはいかないわ。あなたたちの豪邸に案内してくれて、ミライ?」

 ロンデニオンの宇宙港でベルトーチカと別れたハヤトは、案内にしたがって、ブライト・ノア一家の暮らす官舎を訪れていた。落ち着いた石造りの外壁、外に張り出した瀟洒なバルコニー、ベージュとローズピンクを基調にしたインテリア。アンティークな風合いのそのアパートを、ブライトはちゃらちゃらして落ち着かないと評したが、ミライはとても気に入っているの、とうれしそうだった。
 ホワイトベースの元クルーの数人が、こんなふうに顔を合わせるのは数年ぶりのことである。フラウ・ボゥとカツ、それにセイラ・マスは昨日ロンデニオンに到着して、ノア家のリビングでくつろいでいる。フラウとカツはノア家に数日間滞在して夏休みを楽しみ、セイラはコンドミニアムに部屋をとって、1か月ほどロンデニオンに留まる予定だという。ジャーナリストとして活動する彼女は、次の取材地にこのコロニーを選ぶことにしたようだ。
 しかし、何よりハヤトを驚かせたのは、キッチンに立つブライトの姿だった。手伝うわ、というミライとフラウを締め出して、カツと二人で閉じこもっている。
「一人暮らしをするうちに、趣味になったらしくてね」とミライが言う。
「料理を作ることを考え始めたら、仕事であった嫌なことも全部、その間は忘れられるって、それでハマってしまったみたい」
「カツも料理を?」ハヤトが目を丸くする。
「そうなの、おいしいものを作って、みんなが喜んでくれるのが嬉しいってね、将来は調理師になりたいって、張り切っているのよ。こっちに来て、ブライトとすっかり意気投合してしまって」
「私たち、女子は出る幕がないの」とセイラがいつもの彼女らしい冷ややかな調子で言うのがおかしくて、ハヤトはつい笑ってしまった。
 ホワイトベースに乗り込んでいたあの頃は、辛くてどこかへ逃げたしたいと思ったこともあったが、振り返ってみると、あの数ヶ月の間をともにくぐり抜けてきたという経験が、10年後まで続く不思議な安心感につながっている。故郷を失くし家族を亡くしたハヤトにとって、彼らこそが家族であった。
「カイは、来ないのかい?」
「ええ、グラナダで取材中なんですって、あと一押しで情報源がつかめそうだから、もう少し留まっていたいんですって」とミライが答える。そろそろ、約束の時間が過ぎようとしていた。キッチンから顔を出したカツが、そわそわとした様子で時計を見つめる。
「まだ、揃わない? そろそろ準備ができたんだけどー」
「アムロがまだなの、遅いわね、一体何をしているのかしら」フラウが言った。
「軍人になっても、そういうところは相変わらず…だな」ハヤトが言った。
「あの時から、少しも変わっちゃいない」
「あの時って?」ミライが言った。
「<サイド7>を出て来なくちゃならなかったときよ、ほら、ジオンのザクがコロニーに侵入してきて、避難命令が出て…」フラウが言った。
「私、アムロを呼びに行ったら出かけるどころか、下着姿のままで呑気に遊んでたんだから。もしあのときアムロに声をかけなかったら、きっと、逃げ遅れてたわ」
「もしそんなことになっていたら」セイラが口を開いた。
「私たちが今こうして集まるなんてこともなかったかもしれない、ってことね」
インターホンが鳴り、フラウが弾かれたように立ち上がった。
「僕が出る」と、カツが玄関に駆け出していく。ドアを開けると、黒いジャケットにジーンズ姿のアムロ・レイが立っていた。右手にボトル、左手には四角い箱を抱えている。

「ごめん、遅くなって…大きくなったね、カツ。これを仕上げていたら、遅くなってしまった」と、箱を手渡す。
「これ、ぼくに?」
「向こうに行って、みんなにも見せてあげて」アムロが言った。
「アムロ!」フラウがつづいてやってくる。その姿を見ると、笑顔が少し崩れて泣き出しそうな顔になった。
「遅かったわね、もう来ないんじゃないかと思って心配したんだから」
「フラウも元気そうで、よかった」
「なによ、もう。心配してたのよ、ずっと、会いたかったんだから」
 そう言うと、フラウはアムロに抱きついた。アムロは、そんな素直な彼女のあらわした態度に心がほぐれた。トーキョーを出て行った時からずっと心のどこかに残っていたわだかまりが、溶けてゆくような気がした。
 照れくさそうに、アムロの胸から顔をあげるとフラウが言った。
「さあ、行きましょ、みんなも待ちくたびれているわ」
 カツはアムロからもらった箱を持ってソファの所へ行くと、テーブルに置いて、蓋を開けた。薄い緑色の球体が、姿を表す。それを見て、みなが一斉に声をあげた。
「ハロ!」
「ハロはハロでも、新型なんだ」アムロが言った。
「ハロ Mark-IIだ」
「いつの間にそんなものを作っていたんだ」ブライトが言った。
「ずっと作りかけのまま放り出していたんだけど、せっかくだからと思って、徹夜で仕上げた。次はいつ会えるか、分からないからね」
「ねえ、どうしたら動くの?」カツが言った。
「新しい機能がある。ガンダムと同じ、学習型コンピュータ搭載だ」アムロが言った。
「このハロは、聞いたこととか見たことを、どんどん記憶していくんだ」
「ちょっと待って、アムロ、カツ」ミライが立ち上がると、言った。
「とりあえず、その話はあとにして。せっかくのお料理が冷めてしまうわ。乾杯して、はじめましょ」

 昔の仲間とのひとときは、やはり心を和ませる何かがあった。彼らはホワイトベースを降りて離ればなれになってからの歳月を、どのように過ごしてきたかを話し合った。フラウ・ボゥは来年春にも、トーキョーのボランティアセンターで出会った救急救命医の男性と結婚する予定であることを報告し、皆から祝福の言葉を浴びるようにもらった。
 食事も終わって、ハヤトはブライトと何やら話し込んでいる。アムロはカツに、新しいハロの機能について教えている。フラウはそんな様子をぼんやりと見ていた。
「どうしたの?」そんなフラウの様子に気付いて、ミライが言った。
「何でもないわ」フラウが言った。
「…少し、酔ったみたい」
 バルコニーの窓が少し開いていて、外から気持ちのよい風が入ってきた。フラウは立ち上がると、窓の外に出てバルコニーの手すりに体を預けた。
ふと気配を感じて振り向くと、アムロが横に立っていた。
「ここは、いい所ね」フラウが言った。
「セイラさんと付き合ってるって、ほんと?」
 アムロが、不意をつかれたような表情を見せ、フラウは笑った。
「別に、隠さなくったっていいのよ。隠そうとしたって、わかるもの」
 照れたように、アムロが笑った。
「それよりも、アムロが軍に戻ったっていうことの方が、びっくりしたわ。もう戦うなんてこりごりだ、っていうふうにずっと見えていたから。何があったの?」
「うーん」と、しばらくアムロは言葉を探すように考え込んでいたが、やがて言った。
「難しいな、一言ではとても言えない」
「でも私、わかるわ。言ってあげようか?『僕が一番、ガンダムをうまく使えるんだ!』、って、思ったからじゃない?」
「ああ…、それもあるかな」
 ふふふ、と楽しそうにフラウは笑うと、急に真顔になって言った。
「あのときみたいに、また活躍してほしいなって思うけど、でも、…でも、セイラさんを悲しませては、ダメよ、絶対に」
 アムロが、うなずいた。
 そこへ、ハヤトがやってきた。
「ちょっと、いいかい? 実はアムロに頼みがあるんだけど」
「頼み?」
「僕たちの戦争のときのことを書いた本が出ただろ? それを読んだ僕の上官の知り合いが、君に会いたいって言っていて、僕についてきて<サイド5>から一緒に来ちゃったんだ。それで、もしよかったら少し時間をとってくれないかな」
「上官の知り合い?」
「そうなんだ、実は僕も、上官から会ってくれって頼まれてさ…」
 ハヤトの表情が、いかにも申し訳そうな感じだったので、アムロは面倒だなと思いつつも頼みを聞いてやらなければいけないなと思った。
「わかった、ハヤトの顔を潰すわけにはいかないからな。その、ハヤトの上官って誰だったっけ?」
「ブレックス・フォーラ少将だ、今は連邦通信委員会に武官として派遣されているんだ」
 思わず声を上げそうになったが、アムロは抑えて平静を装った。カミーユの探り出してきたその人物と、まさかこんなところで繋がるとは、思ってもみなかった。アムロは、都合をつけることを約束した。
 コンコン、とガラスを叩く音がして、ミライが言った。
「お二人さん、中に入って。コーヒーを淹れたわ」
 二人は、部屋に戻った。前をゆくハヤトの背中を見ながら、アムロは知らぬ間に、身近なところまで何かとてつもない危機が迫っているような予感に襲われた。


2:コンタクト

 カーテンを揺らす風がそっと頬をなで、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。柔らかな陽光に照らされたベッドの上で、アムロは目を覚ました。二人の時間が過ごせるようにと、ロンデニオンに来たセイラが借りたコンドミニアムの寝室に、彼はいた。窓の外からは、鳥のさえずりや街路を走る子どもの歓声が聞こえてくる。
 平和だ。〝新型〟を相手に迎えた戦闘訓練の日々、そしてそれが奪われるという極秘の事件で強いられていた緊張とは無縁の世界が、基地の外には広がっている。ようやく得た休暇で、アムロは張り詰めていた神経が弛緩してゆくのを感じていた。
 腕を伸ばすと、まだ温かみの残るシーツが手に触れる。時計を見ると、午前10時をすぎている。彼女はもう、どこかへ行ってしまったのだろうか。
 ゆっくりと体を起こすと、コーヒーの香りにまじって彼女のつけた香水の香りが漂ってくる。その手のことが苦手なアムロが、一年ぶりに会う彼女に何か贈り物をしたいと悩んでいたとき、キースがアドバイスをくれ、慣れないブランドショップで店員に選んでもらったものだった。彼女のイメージを伝えて選んだ「ヘレンヘレン」の香りを、彼女はとても気に入った。
「やっと、お目覚めね」ベッドの縁に腰掛けて、セイラが言った。白いシャツにデニムのジーンズ、何の飾りもないその装いが、かえって彼女の美しさを引き立てている。
「ロンデニオンの街を歩こうって、約束したこと、覚えていて?」
「ああ、もちろん」
「ヘレンヘレンのショップにも行きたいわ」
「うん」
「夕方には、カミーユって子の見送りに行くのよね?」
 アムロは、その豊かなショートボブの金髪からのびる白い首筋を見ていた。
「することが、たくさんあるわ。ねえアムロ、聞いてるの?」
「うん」アムロはその耳に顔を近づけて、ささやいた。
「したいことは、それだけ?」
 その唇が肌に触れるのをセイラは感じる。
「それだけって?」その頰に触れると、アムロはセイラのその青い瞳をのぞきこむようにしながら、声を出さずに唇を動かした。セイラはその言葉に思わず、笑みを浮かべてアムロを見る。そして彼の首を抱くように腕を回し、アムロはそっと、その唇をふさいた。
 ロンデニオンの朝の光の中で、ふたりは時間の流れを止めて体を重ねた。その素肌にもう一度、愛の糸が紡がれて行く。

「ご苦労だったな、ベルトーチカ・イルマ」
 ウォン・リーはオフィスを訪れた彼女を立ち上がって出迎えた。ロンデニオンの古めかしい街並みを見下ろす、ルオ商会本社ビルの最上階である。ソファに腰掛けると、秘書がポットに淹れたジャスミンティーを運んでくる。向かい合わせに座ったウォンはこの会社の専務だが、ベルトーチカが来たのは会社とは別の案件のためだった。
「しかし、どういうことだ。データを送ればすむものを、わざわざ君に持たせるとは」
 ウォンは、彼女から古風なマニラ封筒を受け取ると、言った。
「私たちの動きが、感づかれてきているみたいだと、フォーラ少将が言っていたわ。ネットワーク上の動きを、追跡したような形跡があるって」
「それで、君が伝令を仰せつかったわけだ」
「ええ」ベルトートカが肩をすぼめた。
「フォーラ少将の作戦書です。同じものを昨日、シャングリラの船団本部にも持っていってあります」
 ウォン・リーは封筒からペーパーを取り出すと、ざっと目を通した。
「まずはグラナダ、だな。こちらからも、良い知らせがある。<ラーディッシュ>の連中が一度しくじった〝新型〟ガンダム3機のうち1機を手に入れた。もう1機は大破、連邦軍に残るのは1機だけだ」
「ほんとに? やったじゃない! で、それどこにあるの?」
 ウォンはカップを取り、その香りを楽しみながらジャスミンティーをすすると、言った。
「もうグラナダに届いているはずだ」
「なんだ、それじゃ見られないわね」
「当たり前だ、ここは、あのティターンズ、ロンド・ベル隊のお膝元だぞ? そいつらから奪ったものを、ここに置いておけるわけがないだろう」
「グラナダにだって、基地はあるわよね?」
「確かに、向こうにも基地があり、ティターンズの部隊が駐留している。が、向こうには同志がいる」
「あの人たちは、嫌いよ」立場からすれば一介の社員にすぎない彼女だが、重役のウォンにもまったくひるまず、歯に衣着せずに話すところを、ウォンは気に入っている。
「ザビ家を祭り上げて、中世のような独裁体制を取り戻そうとする人たちなんて、全然、同志じゃないわ」
「そう言うな、1点でビジョンを共有していれば、それで十分だ。すなわち、反地球連邦。連邦という頸木を壊すことで一致してさえすれば、そのあと奴らがザビ家を立ててジオン公国を再興しようがどうしようが、我々の知ったことか」
 ウォンはテーブルに肘をつき、前のめりになると言葉を続けた。
「そうなれば、むしろ都合がいい。我々は新規参入事業で新たな顧客を得ることができるぞ、ベルトーチカ。奴らは、モビルスーツをもっと必要とするようになる。艦艇もだ。マーケターとして考えてみろ。これは面白いことになるぞ?」
 ベルトーチカが、目をキラキラと輝かせる。
「<サイド1>に来たのには、実はもう一つ目的があるの。ガンダムというアイコンを、もっと引き立たせる必要があると思って」
 そう言うと、さっと立ち上がった。
「朗報を、期待していて」

「早くしないと、乗り遅れるわよ」
 ドアから顔をのぞかせて、相変わらず、ファ・ユイリィが母親のように急き立てる。ロンデニオン・スペース・アカデミーのサマーキャンプは最終日を迎え、彼らは地球へ戻る船に乗るために準備をしていた。
 スウィートウォーターというコロニーの成り立ちと、戦争中に起こったこと、そして戦後の荒廃についてまとめた彼らのレポートを、キャンプリーダーのレコア・ロンドはとても高く評価してくれた。夏休みの課題のレポートとしてもすごくいい出来だが、彼女は「体制側の教師には、反連邦政府的だと烙印を押されちゃうかもしれないわね」などと気になる一言を付け加えた。
 もう一つ、カミーユを喜ばせたことがあった。不正アクセスの件で押収された彼の端末を、情報部のナカト中尉は返却してくれたが、そのとき、カミーユがした軍関係のネットワークへの不正アクセスの調査に対して報酬を支払う、と言ったのだ。その金額は、この1ヶ月のサマーキャンプの参加費をまかなえるほどもあった。
「一挙両得ってやつかな」
 カミーユが、つぶやいた。
「もう、早くしなさいよ、カミーユを置いて、みんな行っちゃうわわよ!」
 ドアの外で、ファの叫び声がする。カミーユは取り返した端末をバックパックに押し込むと、1ヶ月を過ごしたアカデミーの部屋をあとにした。

 宇宙港のロビーに集まったサマーキャンプの参加者の前で、キャンプリーダーのレコアとトーレスが別れの挨拶をするのを、カミーユは後ろの方で聞いていた。ここから出て<ポート・アース1>まで行く便に、彼らは乗らないらしい。君たちは成長した、地球までの最後の旅を楽しんで、と彼らは言って、一人ひとり別れを惜しんでいた。
 その様子を見ながら、カミーユはふと、スウィートウォーターで出会った少年、ジュドーのことを思い出していた。

……このコロニーの風景を、見ただろう? 潰れた店、止まった工場、そんなのばかりだ。ここじゃ仕事もないからさ、軍隊に入るか、船で宇宙に出て行くしかないんだ……

 彼はこれから、どうするのだろうか。彼も、高校を出たら軍に入るか、あるいはアカデミーで訓練を受けて、輸送船で宇宙に出ていくことになるのだろうか。自分たちにとって、宇宙に出ることは体験でありちょっとした夢のあるレジャーだが、彼らにとってはそうではない。そしてカミーユは、スペースコロニーの住民には、高額な旅費を払って地球に行くことはできるにしても、地球に移り住む選択肢が与えられていないことを知っていた。

「カミーユ!」
 後ろから呼ぶ声がして振り返ると、アムロが手を振っていた。
「間に合ってよかった」
「アムロさん、来てくれたんですか?」
「もちろんだよ、君は同労者なんだから」
 カミーユは、アムロの横に立つ女性に目を引かれた。
「あなたは、ひょっとして…」
「セイラ・マスです、あなたのことはアムロから聞いているわ」
 単に美しいというだけでない、その凜とした声と立ち振る舞いに、カミーユは何か気圧されようなものを感じた。
「あ…あの、あなたもロンデニオンに?」
「私は北米に住んでいるの。アムロの休暇にあわせて、ここへ来たのよ」
「あ…、」その言葉が、二人の関係性を物語っている。
「ゆっくり話せなくて残念だけれど、アムロが、北米にいる私たちの共通の友人をあなたに紹介したって聞いたわ。地球に戻ったら、連絡してみて。何かサプライズがあるみたい」
「サプライズ?」
 アナウンスが流れ、搭乗ゲートが開いた。サマーキャンプを終えた若者たちが、次々にゲートを通り抜けてゆく。
 カミーユは、二人に手を振って先をゆくファを追いかけた。このときのセイラの一言が、後にカミーユの救いになることを、このときまだ彼は知るよしもなかった。

 期待に胸を膨らませて訪れたロンデニオンから、失意を持って離れることになったジェリド、コウ、エマのグラナダス・ガード隊の3人は、翌日、連邦軍の輸送機でグラナダ基地へ戻ることになっていた。1機だけになってしまったガンダムMk-IIを受領できたことは、ジェリドとコウを喜ばせたが、エマの気持ちはそれだけでは到底晴れそうにない。
 出発に備えてパッキングを終えたエマは、ロンデニオンの街へ出た。このコロニーを去る前に、もう一度あの店に行ってみよう。そこは唯一、心が落ち着く場所だった。エマは基地を出て街路を歩き、官庁街にほど近いところにあるパブ、ラーディッシュに立ち寄った。
 店は賑わっていたが、カウンター席は空いていた。彼女がスツールに腰掛けると、いかつい髭面の店長がカウンターの向こう側で笑みを浮かべた。彼は挨拶をすると注文を聞き、彼女のグラスを用意した。
 コースターの上にグラスを置くと、エマは店長を見上げて言った。
「明日の船で、グラナダに戻ることになったの。それで、最後の夜にここに来てみたくなって」
「それは、光栄なことです」店長が言った。
「昔、連邦軍で戦艦に乗っていたそうね。お名前を、聞いていなかったわ。私はエマ・シーン。あなたは?」
「ヘンケン・ベッケナーです、ティアンム艦隊の一員でした」彼は伏し目がちになっていた。過去に苦悩する者の目だ、とエマは思った。
 カラン、とグラスの中で氷が音を立てる。言葉が続かないまま、エマはグラスの中の琥珀色の揺らめきを見つめていた。
「何か、あったんですか?」
「ええ…、そうね、仕事で…大きな失敗をしてしまった」
 エマは、努めて明るい声で言った。
「この前、あなたは言ったわ。パイロットは鼻持ちならない奴らです、でも本当の戦いになれば、戦火の中に真っ先に飛び込んで、我々を救ってくれるんです、って。私には、無理だった」
 ヘンケンは、静かに耳を傾けていた。エマは、目をあげると言った。
「人を、撃ったの。生身の人間を。パイロットなのに、本当の戦いになったときコックピットにいなかった」
 ヘンケンは、穏やかな表情のまま口を開かずに聞いていた。やがて、言った。
「後悔しているのですか、撃ったことを? それとも…、パイロットになったことを?」
 エマは、小さく首を振った。「もっと、私がうまく対処できていれば撃たずにすんだのに、と思うと自分が情けなくて」
「そうしたものです」ヘンケンが、うなずいた。
「自分の一瞬の判断で、失ってしまうものがある。武装する者が負う責務は重いのです。その重さに、耐えきれないと思うこともある」
 エマの緑色の瞳が、揺れている。
「そんなときは、自分が守ったもののことを、思うんです。君が撃ったことで、守られたものがあったはずだ。そうだろう?」
 エマは、あのときのことを思い浮かべた。確かに、機体は失ったけれどもジェリドは守られた。それが自分の、守りたかったものだっただろうか?
「ヘンケン、あなたはなぜ軍を辞めたの?」
 不意に投げかけられた問いに、ヘンケンは一瞬戸惑ったような表情を見せた。やがて、静かに言った。
「そうだな、…あそこに居続けたとしても、守りたいと思うものを守れなくなってしまった」
「実直なのね」エマが言った。
「それだけが、取り柄です」照れたように笑うと、ヘンケンが言った。エマは、彼の一言ひとことを心に刻んだ。
「ありがとう、グラナダに戻っても、何とかやっていけそうな気がしてきたわ」
「それはよかった」ヘンケンが言った。
「幸運を、祈ります」
 その目に浮かぶ陰りに、エマは気づくことができなかった。

 ロンデニオンで過ごす夜は、これが最後になる。前日、やっとアムロが都合をつけて返事をくれたので、ハヤトは胸をなでおろした。連日ベルトーチカから、いつになるのかとメール攻撃に遭っていたのだ。
 約束の店はラーディッシュという英国風パブで、気の張らない雰囲気がハヤトを安心させた。約束の時間ちょうどにアムロが来たことが、さらに彼をほっとさせた。驚いたことに、アムロは連邦軍士官のグレーの制服、制帽を着用していた。
「悪いね、付き合わせちゃって」とハヤトは言った。
「でも、なんで制服なんだ?」
「仕事みたいなものだからさ」アムロが言った。
「それに、私服じゃ全然軍人にもパイロットにも見えない、ってセイラさんが言うんだ」
 店に入ると、二人は一番奥まったボックス席に案内された。彼らが席に着くのを見計らったかのように、淡いベージュのカシュクールワンピースを着た女が、ハイヒールの音をコツコツさせながらやってきた。
「ありがとう、ハヤト。やっと会えたわ! 私のこと、覚えてる? アムロ」
「えっ」ハヤトとアムロが、同時に声を上げた。
「君、アムロと知り合いだったんだ?」
「ええ、そうよ。彼がブライトンの士官学校で候補生だったとき、両親がスポンサーファミリーをしていてね、よく一緒に食事したりしたのよ。そうよね? アムロ」
「ああ、びっくりしたよ、ハヤト、誰が会いたがってるのか名前を言ってくれたら、もっと早く連絡したのに」
「いいのいいの、私、あなたを驚かせたかったんだから」と、ベルトーチカは笑う。
「でもね、あなたがガンダムのパイロットだったとはね。そうだったんだ!って思ったわ。ほら、ブライトンでジェリドって上級生とデュエルしたことがあったでしょ? あなた、まだ基礎訓練を終えてなかったのに、圧倒的に強かった」
「君は、今はどうしているの?」
「私? ルオ商会アレクサンドリア支店でマーケティングを担当しているの。また会えるとは思わなかった。うれしいわ」
 彼女は注文を取りにきたウェイトレスに矢継ぎ早にオーダーすると、口を挟む隙を与えず、自分がなぜ、彼らに会いたいと思ったかを流れるように話した。話し終わると、ハヤトのときと同じように、本を取り出してサインをせがんだ。
「サインを?」アムロが言った。
「僕たち、別に芸能人でもなんでもないんだ、サインなんて」
「これから、有名になるわ。この本、今はジオン国内でしか出版されていないけど、連邦の大手メディアが出版権を手に入れようと動いている。連邦で出版されたらまちがいなくベストセラーになるし、そうなれば、次は映画化。私だったら、そう考えるわ」
 ハヤトとアムロは呆れた様子で顔を見合わせた。
「で、有名になる前にサインを手に入れておこうというわけだ」
「それだけじゃないわ」といたずらっぽい表情でベルトーチカが言った。
「会いたかったの、地球連邦を救った若き英雄にね」
 アムロは、いかにも気のない様子でサインをすると、言った。
「僕は別に、救ってもいないし、英雄でもない」
「きゃー、ありがとう」彼女はゆっくりと表紙を閉じて本をバッグにしまった。
「実はもう一つ、お願いしたいことがあるんだけど」
 ハヤトは、アムロが眉をしかめるのを見て、慌てて立ち上がった。
「あ、僕は今日はこのへんで失礼させてもらいます。じゃあ、いい夜を」
「おい、待てよ、ハヤト」引き止めるアムロを振り切って、ハヤトは店を出ていった。
「ねえ、聞いてくれないの?私のお願い。あなたにとって、すごくいい話なのよ?」
「僕も君に、聞きたいことがある。それに答えてくれたら、そっちの話を聞こう。それでどうだい?」
 ベルトーチカはテーブルに肘をついて腕組みすると、キラキラと目を輝かせて言った。
「ええ、いいわ。じゃあ、あなたから」

 アムロは、ブレックス・フォーラ少将について、知っていることを教えてほしい、と言った。彼女はにっこりと笑って、彼について話し始めた。しかし話は脱線し、しまいには彼女自身の話になった。
「じゃあ、次は私の番ね」と彼女は言った。
「あなたの腕を買いたい、と思っているの」
「腕?」
「そう。かつてはガンダムのパイロット、押しも押されもせぬエースだったあなたが、今は地味にジムなんかに乗ってるなんて、おかしいと思わない? 士官学校にいたときだって、ブライトンの魔術師、なんて言われていたくらいなのに」
「別に」アムロが、肩をすぼめた。「ガンダムは試作機だったんだ。今のジムの方が性能的には上だ」
「いいから、聞いて。悪い話じゃないわ。ルオ商会が傘下に入れたグラナダの会社で、新しいモビルスーツの開発を始めたの。今、喉から手が出るほど欲しいのは、優秀なテスト・パイロット」
「僕は昨年士官学校を卒業して、まだ配属されたばかりなんだ。何の実績もない」
「公的には、でしょ。そんなの、どうだっていいわ」そう言うと、彼女は聞いて、というように人差し指を振った。
「あなたが望めば、新型のガンダムにだって乗れるのよ」
「新型?」アムロが、視線を落とした。畳み掛けるように、ベルトーチカが言う。
「私たちのために、その力を使ってほしいの」
「私たちって、一体誰のこと?」アムロが、首を振った。
「少なくとも、君のいう会社のことではないんだろ?」
 饒舌なベルトーチカが、一瞬、口ごもる。
「あ…新しい世界のためよ」
「無理な相談だ。僕はテロリストのために、働きたくない」
「なんですって?」彼女の顔から、笑みが消えた。
 そこへ、「アムロさ~ん」と酔客が割り込んできた。なれなれしくアムロの肩に手を回して話しかけてくる。
「誰、だれ、ダレですか、この美しい女性は?!」
「やあ、キース」アムロが言った。
「紹介するよ、この美しい女性はベルトーチカ・イルマ。僕が士官候補生だったとき、彼女の両親がスポンサーファミリーをしてくれんだ」
「はじめまして。僕はチャック・キース少尉、モビルスーツ・パイロットでありますっ」と手を差し出す。ベルトーチカはいかにも気のないそぶりで握手をした。
「こいつは、おれの士官学校の同期のコウ・ウラキ少尉だ、明日、グラナダ基地へ帰るっていうんで、別れの盃を酌み交わしていたところだったんですぅ」
「あなたたち、アムロと同じ部隊の人?」
「おれですよ、おれ」キースが自分を指してさかんにアピールする。ベルトーチカが、蠱惑的な笑みを浮かべて言った。
「すごいわ、ねえ、教えてくれない? あなたたちのこと」

 ロンデニオンでの最後の夜、ベルトーチカとの面談の席から逃げ出したハヤトは、ミライやフラウらとノア家のリビングでとくつろいでいた。もう、夜更けが近かった。そろそろ、ホテルへ戻ろう。そう思った矢先、端末に着信があった。アムロからだった。
「ハヤト、悪いけど、さっきの店まで来てくれないか?」
「まだ、そこにいたのか?」
「僕の同僚と鉢合わせてね、彼が女好きなもんですっかり彼女と意気投合して、今までずっと飲んでいたんだ。それで彼女、酔い潰れちゃって、ハヤト、彼女をホテルに連れて帰りたいんだけど、手伝ってくれないか?」
「わかった」

 店の奥のテーブルに、彼女は突っ伏して眠っているようだった。
「悪いな、ハヤト」
「こっちこそ、いろいろすまなかった」
 そう言うと、ハヤトはベルトーチカの肩をそっと叩いた。
「酔ってないわ」突然ベルトーチカが顔をあげると、言った。
「もう、アムロったらどこに行ってたのよ。あたしの話を、もっと聞いて欲しかったのに」
「分かった。じゃあ、続きは君のホテルの部屋で聞こう」アムロは彼女の腕をつかむと言った。
「さ、立って」 ベルトーチカはにっこり笑うと、立ち上がった。
「ありがとう。でもまだ夜はこれからよ。ね、踊りに行きましょうよ、コウとキース、あなたたちも」
「彼らは、もう先に帰った」アムロが言った。
「君は、ハヤトと一緒に来たんだろ? もう夜も遅し、ここは<サイド5>ほど治安もよくない。だから、ホテルへ行こう。そこでまた飲めばいい。どこに泊まってるんだい」
 彼女がホテルの名前を行った。アムロは彼女を連れて歩き出したが、すぐにハヤトの方を振り返って言った。
「彼女のバッグがあるだろう。それを持って、一緒に来るんだ」
 ハヤトは言われた通りにした。 タクシーがホテルの前に停車する頃には、ベルトーチカはすっかり寝入ってしまい、揺り動かしても目を覚まそうとしなかった。二人がかりで彼女をタクシーから降ろすと、アムロが彼女を抱きかかえてホテルに入り、ロビーのソファに座らせた。
「じゃあ、僕はここで失礼するよ」アムロが言った。
「ちょっと待って、帰るなよ。まだ、彼女を部屋まで連れて上がらなくちゃならないだろ」
「それはハヤト、君の役目だ。彼女は君の上官、ブレックス・フォーラ少将の部下だった人の娘なんだ。父親は、フォーラがしたことが原因で命を落とした」
「えっ…」
「<サイド5>に戻ったら、そんな話を聞いてやってくれよな」
じゃ、というとアムロは出て行った。ハヤトはフロントで事情を話して彼女の部屋のキーをもらうと、ソファに座らせたままの格好で眠りこけている彼女をズタ袋か何かのように肩にかついで、部屋に向かった。

 ドアを開けてシングルベッドに寝かせたときも、ううん、と声を立てただけで、彼女はまったく気付いた様子もなく眠りつづけたままだった。そう広くもないフロアの真ん中に、スーツケースが開けたまま置いてある。服やら靴やら化粧品やらが、そこらじゅうに散らばっている。
 彼女はすやすやと、安らかな寝息を立てている。ハヤトは立ち上がると、履いていたままになっていた真っ赤なパンプスを脱がせてやった。きれいな形をした足の指。爪にはきれいに赤いペディキュアが塗ってある。
 ハヤトはベッドの端に腰を下ろすと、彼女の寝顔をじっと見つめた。ふっくらとした唇がわずかに開き、心地よさそうな寝息が漏れている。ぴったりと閉じられたまぶたを、長いまつげが縁取っている。このままじっと見つめていたら、その目がぱっちり開かないだろうか。彼女の青く澄んだ瞳と、子供のようにためらいのないまっすぐな視線を、もう一度見たいとハヤトは思った。
 やがてハヤトは立ち上がると、ライトを消して部屋を出た。一体彼女は、アムロに何を願い出たのだろうか。ハヤトはまだ、自分自身の彼女を見る目が少し変わっていることに、気づかなかった。

 カーテンの隙間から、陽光が差し込んでいる。ベルトーチカは、ひどい喉の渇きを覚えて目を覚ました。自分がどこにいるのか、分からない。慌てて体を起こし、周囲を見回す。散らかったままのホテルの部屋だった。しかし、どうやってここまで戻ってきたのか、思い出そうとしても記憶がない。彼女はベッドサイドの時計を見た。朝の6時を少し過ぎている。
 足を下ろして立ち上がると、冷蔵庫から水の入ったボトルを取り出し、グラスに注いだ。1杯、そしてまた1杯。頭ががまだ、くらくらしている。彼女はベッドに腰を下ろすと、こめかみを指先で押さえながら、昨夜の記憶をたどっていった。
 着たきりだったワンピースから、ヘレンヘレンの香りがほのかに香った。アムロに出会ったときから、彼女はその香りがすることに気づいていた。誰か、女の移り香だとすぐにわかった。
 その香りがどうしてここに残っているのか、彼女は悟った。彼が、彼女の誘いに対して「テロリストのために、働きたくない」と言ったことを思い出した。
 ベルトーチカは、そのままベッドに倒れ伏して、少しだけ泣いた。それから起き上がると、スーツケースを引っ掻き回してピルケースを探し出し、頭痛薬を飲み、そして着ているものを全部脱いで、シャワーを浴びた。



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