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機動戦士ガンダム0085 #1 素顔のままで Just the way you are

機動戦士ガンダムで描かれた、宇宙世紀0079の戦争が終結したあとの、ホワイトベースの人々のお話シリーズ第2弾です。アムロとセイラが再会を果たすシリーズ「機動戦士ガンダム 0085 姫の遺言」の前後のお話です。

学友から「氷の女王」と呼ばれているセイラ・マスに、ブッククラブで知り合ったレイチェルが近づいてくる。仲間内で、誰が彼女を口説けるかを競おうとしていたレイチェルだったが、次第にセイラに心開くようになっていく。一方アムロは大学の寄宿舎のルームメイトと、リベンジマッチプロジェクトに取り組みはじめていた‥‥

登場人物
セイラ・マス  北米・ボストンの大学の学生
アムロ・レイ  北米・ケンブリッジの大学の学生

レイチェル・ローズ セイラに近づく学友 
ナダル・マイヤー  レイチェルの友人 
ワン・フェイフォン レイチェル、ナダルの友人 フェイと呼ばれる
ヒロ・サイトウ   アムロの高校の同級生で、大学の学友
ダビド・ラング   アムロの学友
トム・オブライエン アムロの学友


 彼らは、彼女のことを「氷の女王」と呼んでいた。金髪に青い瞳、そして白い肌。ほとんど感情を伺わせない静かな口調と何事にも動じる様子を見せないクールな表情が、まるで氷のような冷たさを感じさせたからである。そうした彼女の印象は、しかし、学友たちを遠ざけるどころか、むしろ興味を掻き立てた。謎めいたクールビューティ。決して笑顔を見せない女。そんな女が自分を見て、笑顔を見せたら。腕の中で、満たされた表情を見せてくれたら。
「征服欲を掻き立てられる、ってわけね」
「そんな言い方はよせよ、レイチェル。あるいは君だって、そうじゃないのか?」
「ちょっと、違うかもね」まっすぐに伸ばした赤い髪をかき上げながら、レイチェルは笑った。
「友達になりたいわ。彼女、すごく知的な目をしているから。それに‥‥」
「孤独だ」というナダルの言葉を、再びレイチェルは打ち消した。
「ちょっと違うわ。寂しい目をしている。誰か、大切な人を失ったばかりなのかもね」
「失恋したってこと?」フェイがテーブルに頬づえをつきながら、言った。
「それを調べるのが、あなたの仕事よ。ジャーナリスト志望なんでしょ? フェイ」
「ガードが固いんだ、彼女。ネット上には、何の情報も上げていない」
「別に、ジャブローのホストコンピュータをハッキングしろって言ってるわけじゃない」ナダルが言った。
「何なら、俺が一緒の授業に出て、そのあと、帰り道に跡をつけてもいい」
「おもしろいわね。やってみれば?」
 そのとき、フェイが声をひそめて言った。
「あ、来たよ、彼女。声かける?」
 そう言い終わるうちに、レイチェルが手を挙げた。
「ハーイ、セイラ。これからランチ? よかったら、一緒にどう?」
 彼女は振り向くと、三人を見て小さく唇の端を上げて言った。
「ありがとう、ではご一緒させてもらうわ」
 まあ、彼女、少し笑ったのかしら。レイチェルはそれだけで、もう彼女に夢中になっていた。

 授業に出て、授業のない時間は図書館で過ごし、また授業に出る。終わったら図書館に寄って、アパートに帰る。セイラ・マスはボストンの大学でのごくシンプルな毎日を過ごしていた。ほとんどの時間を勉学に費やしていたが、それもまったく苦にならなかった。何かに没頭していれば、後ろに置いてきた様々なことを忘れることができた。
 時折、他の学生に食事に誘われたり、パーティに誘われたりすることもあったが、彼女は彼らの目的とするところには興味がなかったので、ほとんど誘いに乗ることはなかった。そんな中、レイチェル・ローズに誘われて参加するようになった会合があった。毎週金曜日に図書館で開かれているブッククラブだった。事前にメンバーが共通の課題図書を読んでおき、会合ではその内容について自由にディスカッションする、というものである。その集まりの、メンバー同士の適度な距離感が、セイラには心地よかった。
 ナダルとフェイは、彼女と同じくブッククラブのメンバーで、特にレイチェルとは、会合以外でも親しくしている様子だった。カフェテラスで食事をしている三人に声をかけられて、断る理由もない。
 彼女が席につくと、レイチェルが言った。
「もうすぐ夏休みだけど、みんな、何か予定はあるの? 実家へ帰るとか」
「学費を稼がなきゃいけないから、アルバイトかな」フェイが言った。
「俺は、家族とサマーハウスで過ごすことになっているんだ」ナダルが言った。
「君たちも、気が向けばいつでも遊びに来ていいんだぜ?」
「あなたは? セイラ。実家はどちら?」
「フランスよ。でも、もう戻ることはないわ」
「どうして?」
「本当にフランス革命ってあったのかしら? と思うほど、格式張った家だから」
 淡々とした調子で彼女が言ったので、三人はそれがジョークだとは気づかなかった。
「夏の休暇には、少し、西海岸の方へ行ってみるつもりよ」
「西海岸へ? 誰か知り合いでも?」フェイが言った。セイラが首を振る。
「終戦からもう4年ほどたつけどさ、まだ、あっちの方は復興も遅れてて、ひどい様子だと聞いたけど」
「コロニーが落ちたのも、西海岸の方だったしな」訳知り顔でナダルが言う。
「私たちも、現実を知らなくてはね」
 セイラはそう言うとコーヒーを飲み干し、トレイを手にして席を立った。

 その日の夕方のことだった。いつものように図書館を出て家路についたとき、途中でセイラは、何者かがずっと自分を付けていることに気がついた。セイラが止まれば、後ろの者も止まり、早足になれば、後ろの者も早足になる。不審に思った彼女は、そのまままっすぐにアパートには戻らずに、少し離れた大学のスポーツジムの方へ向い、その入り口に入ったところでつけてきた者を待ち伏せた。
 姿が見えなくなったのか、慌てた様子でやってきたのは、ナダル・マイヤーだった。スラリと背が高く、普段から鍛えているに違いない、体格のよい男である。彼は入り口に立っているセイラを見て、あっ、と言った。
「あら、ナダル。これからジム?」
「あ、ああ。‥‥偶然だな、こんなところで君と出会うとは」
「ずいぶん鍛えるのね。がんばって」
 彼女はそう言うと、手を振ってジムを後にし、外に出て死角に入ったところから、全速力で走ってアパートに帰った。

 宇宙世紀0084、アムロ・レイは北米・東海岸の街ケンブリッジで、2回目の夏を迎えていた。トーキョーの避難民居住区で知り合ったヒロ・サイトウと同じ大学に進学し、彼が言ったとおり、同じ寄宿舎の、同じ部屋で暮らしている。彼らは一番寮費が安い四人部屋に入ったが、あとの二人、ダビドとトムもヒロと同様戦災孤児向けの特別奨学金でここに来ていて、皆それぞれに金も故郷もなく、夏休みもそのまま寄宿舎に居座り続けている。
 ヒロとアムロがそれぞれに、デスクの前で近代美術史のレポートを片付けようと頭を抱えていたとき、ダビドが息を切らして、部屋へ駆け込んできた。
「おい、やったぞ。ついに、新歓レガッタの最終レースに、俺たちの参加を認めさせてやったぞ」
「えっ、ほんと?」ヒロが振り向いて、声を上げる。
「レポートどころじゃないな、これは」と、アムロも振り向く。
 彼らの大学では、新入生を迎えた9月、ボート部の主催で新入生を歓迎するレガッタが開催されることになっていた。参加するのは主にスポーツ系のクラブに入部した新入生で、種目はスイープの舵手つきフォア。このレースの上位3チームが、ボート部と対決する最終レースに出場できることになっているのだが、アムロやヒロらスポーツ系クラブに所属していないオタク系の学生には、もともと縁のないイベントであった。
 しかし、ダビドは、そのイベントのルールブックを見て、彼らにも勝利の目を見ることのできる抜け穴を見つけたのである。おまえら、見てみろ。ここにはどこにも、漕ぎ手が人間でなければならない、とは書いていないぞ。それを聞いて、ヒロが目をキラキラと輝かせる。
「つまり、漕ぎ手をロボットにする」
「そして、自動航法装置を組み込んだ舵手」
 体力に劣り、何の技術もない彼らが、自分たちのやり方で勝利を呼び込む方法を密かに考え出したのだ。というのも、ダビドが同じゼミでボート部に所属する学生から、トレーニングに使用するローイングエルモメーターのメンテナンスを頼まれたのだが、何かにつけてひ弱な体にダサめのファッション、モテ度もゼロのオタクっぷりをバカにされるのが気に入らず、復讐の機会を狙っていたのである。
「これで、あの脳筋野郎どもの鼻を明かしてやれるぜ」と、早くもダビドは意気軒昂であった。
「アムロは漕ぎ手ロボの設計、ヒロはプログラミング、俺は自動航法装置、そしてトムは筺体製作と資金調達だ」
 そのとき、トムは部屋にいなかった。ヒロが言った。
「資金調達ってのが、一番大変な気がするけど、トムに任せて大丈夫か?」
「お、知らないのか? あいつ、投資で大分儲けてるんだぜ?」

 その夏を、彼らはダビドの個人的なリベンジマッチプロジェクトに費やした。四人はデータを取るためにボート部の艇庫に行き、そこで実際に舵付きフォアのボートを漕がねばならなかった。彼らはボートが筋力、とくに脚の瞬発的かつ持続的な筋力が必要な競技であることを知った。しばらくの間、彼らは強烈な筋肉痛に苦しめられた。
 あちこちが痛む体をソファに横たえて、ヒロが言った。
「なあ、アムロ。俺たち、勝てると思うか?」
 頭を逆にして寝そべりながら、アムロが答えた。
「別に、並んで同時に同じ方向に向かって進むだけだろ? 逆方向からビーム砲を撃ちながら向かってくる、というなら不確定な要素が多すぎるけど‥‥、数値化する要素を間違えなければ、勝てるんじゃないかな」
「楽勝か?」
「楽勝さ!」

 2週間余りの西海岸の旅から戻ってきたあと、セイラはまたいつも通りの暮らしを始めた。授業はないので、図書館にいるか、街をぶらぶら歩いて美術館や博物館を見て歩くか。
 ある日のことだった。図書館でコンピュータを開いて、西海岸で見たこと、知ったことについて書き記していたとき、声をかけられた。レイチェルだった。
「西海岸に行くって言っていたけど?」
「ええ、1週間前に帰ってきてね」とセイラは答えた。
「また、いつも通りの生活に戻ったわ。あなたは?」
 レイチェルは、肩をすぼめると、言った。
「隣に座っていい?」
 セイラがうなずくと、彼女は隣の席に座って、答えた。
「あなたと同じよ。実家には戻らないって決めているの。好きじゃないのよ、父は気が短くて、すぐ機嫌が悪くなったり怒鳴ったりする人間だから、いつも空気がピリピリしていて」
「そうなの。それは辛いわね」
「それにね、一年戦争のとき、北米はジオン軍に占領されたでしょ。その反動なのか、コロニー生まれの人たちを見下したり、差別的な発言をしたりして、そういうのがすごく嫌だったの」
「そうね。一方的に価値観を押し付けられるのは、嫌なものよね」
 レイチェルは、セイラの方を見て言った。
「あなたにも、そういうことがあった?」
 セイラは、兄のことを思い出していた。キャスバル兄さんはシャアと名乗るようになったあと、自分の話ばかりで私の話に耳を傾けようとしなかったし、私が自分の考えで軍に入って、そこに居続けることも認めようとしなかった。そして、静かに答えた。
「ええ、あったわね、少しだけど。だから私、自立して、自分一人で生きられる人間にならなきゃ、って思ったのかもしれないわ」
「あなたって、不思議な人ね」レイチェルが突然そう言ったので、えっ?とセイラは目を丸くした。
「みんな、あなたのことを陰で氷の女王、なんて呼んでいるわ。いつも冷静で、感情を表さず、氷のように冷たい、なんて言って。正直、私もそう思ってた。でも不思議と、横にいると温かく感じるわ」
「そう、そんなふうに言われたのは初めてだけど‥‥ありがとう」
 気がつくと、もう日が傾き始めている。レイチェルが窓の外を眺めたあと、振り向いて言った。
「ねえ、もしよかったら、これから一緒に食事でも、どう?」
「いいわね」
 二人は、立ち上がった。

 学生向けの気取らないパブで、セイラはレイチェルと食事を楽しんだ。彼女は文学部で、小説を書くという授業に苦しめられている、と言った。書くことは好きだだけど、それに優劣をつけられたり、批評されたりするのには、本当に耐えられないわ。だんだんと、自分が書きたいことではなく、教授の気に入りそうなテーマで書くようになってくる。
「それでも、自分のスタイルを見つけ出して、それを守り切ったときに、納得できるものが書けたっていえるのかもしれないわね」セイラが言った。
「将来は小説家に?」
「わからないわ。少なくとも今は、自分が向いているとは思えない」レイチェルが言った。
「出版社で編集の仕事をしたい、と思っているの。インターンに行くつもりよ。あなたは?」
 セイラが、肩をすぼめた。
「よく、わからない。まだ。でも、私が興味を惹かれるのは、いつも、現実に起こったことなの。この世界や、目の前の人に。そういうものを捉えて伝える。それが、自分のしたいことじゃないか、と思っているわ」
 レイチェルは、そのとき彼女の瞳の奥に、燃える炎のような熱を感じた。
「素敵ね」
「それはわからないけど、そうすることでしか、人って変われないと思うから」
 そう言う彼女の顔には、小さいけれどやさしい微笑みが浮かんでいた。レイチェルは、心が高鳴るのを感じた。それは、ナダルやフェイが、見たいと望んでいたものだった。それが今、自分に向けられている。
 レイチェルは、ますます心が彼女に引き寄せられていくのを感じていた。今まで、男性には一度も感じたことのない思いだった。恋‥‥とは、こういうものなのね。レイチェルははじめて、その言葉の意味を知った。

 9月も終わりに近づき、目標としていた新歓レガッタの日がやって来た。彼らのプロジェクトはすでに学内でも話題になっており、新入生レースの上位3チームとボート部主力が対決する最終レースには、多くの見物人が集まった。
 ロボットにボートを漕がせる、という彼らの企みは、思ったほど簡単なことではなかった。風や水面の状態など不確定な要素も多く、その場で判断し対応すべき事柄すべてを予測しプログラムすることができなかったからである。
 それでも、ロボットの漕ぐボートがスタートラインにつくと、観客らからは、おおっ、という歓声が上がった。
「なんだ、あれ? どこかで見たようなロボットだぞ?」
「モビルスーツみたいに見えないか?」
「まさか、中に人が入っているんじゃないだろうな?」
 トムが製作した筺体は、一年戦争時に登場したジオン軍のモビルスーツ、ザクにそっくりだったからである。
 なぜ、ザクなんだ? とアムロが聞いたら、トムはこう答えた。たまたま、俺が作ってる3Dのグラフィックスがあってさ、それを流用しただけだ。いいだろ? もちろん、わかってるさ。北米はジオン軍に占領されていたから、みんな奴らにはいい感情を持っていない、ってことは。でも、それを差し置いたって、あの、ザクのデザインは秀逸だ。
 そのせいかどうか、レースは予想以上に盛り上がった。そもそも上位に入ったとはいえ素人同然の新入生チームが次々に脱落するなか、レースは中盤からボート部主力のチームと、彼らのロボットチームとのデッドヒートとなった。そして、僅差で勝ったのは、鍛え抜かれたアスリートの漕ぐボートであった。最後に勝敗を分けたのは、彼らの競争心とプライドだった。
「ちくしょう、鼻の差、だったのにな。それを覆せないとは」
 ダビドは悔しがってはいたが、顔は笑っていた。4人には、何かをやり遂げたときにしか感じられない達成感があった。

 レースが終わり、ボートを艇庫に戻したあと、ボート部の主将が彼らのところに来て、言った。
「いいレースだった。思いのほか、盛り上がったしね」
 そして、一人ひとりと握手すると、こう尋ねた。
「なぜ、あんなことをやってみようと思ったんだ? 単なる遊びか? 遊びであそこまでできるのか?」
 4人は、互いに顔を見合わせた。言ってみれば、そういうことだ。単なる遊びだ。
 そのとき、アムロが口を開いた。
「単なる遊びといえば、それまでですけど、そこに可能性があるんです。例えば人が互いに血を流し合う戦いを、ロボットに代替させれば、戦争という手段を選ばざるを得なくなっても、払う犠牲を最小限にできるかもしれない」
「なるほど」と、主将は言った。
「確かに君らは、ただのオタクではなさそうだな?」

「レイチェル」
 キャンパスを歩いているとき、彼女は男の声に呼び止められた。ナダルだった。
「最近、あの氷の女王と仲良くやっているようだな」
「ええ、願ったとおり、私たち、友達になったの。時々、彼女のアパートにも遊びに行ったりしているのよ」
「そうか。どこなんだ?」
 レイチェルが、腕を組んだ。
「あなた、一度彼女のあとをつけて行ったこと、あったんじゃない? 彼女、気づいていたわよ。だから、言われてるの。ナダルには教えるなって」
「ふん」とナダルは鼻を鳴らした。
「さすが、氷の女王様だな、自意識過剰だ」
「それで? 何の用?」
「二つ、ある。一つは、次のブッククラブの課題図書だ。俺が決めた。ジオン・ダイクンが書いた『第三のルネッサンス』という本だ」
 レイチェルが、眉をしかめる。
「あなたの趣味なの? 議論が紛糾しそうな本だけど」
「彼らが何を志していたか、知ることは重要だ。セイラにも、伝えてくれ」もっともらしく、ナダルが言った。
「もう一つは?」
「セイラのことだ」と、ナダルは顔を近づけて、言った。
「彼女、誰かと付き合っているのか? あるいは、君と。そういう関係?」
 むっとした表情で、レイチェルが答える。
「彼女は、友達よ。だけど彼氏がいるかどうかは、知らない」
「女同士が集まれば、男の話ばかりしていると思っていたが」
「彼女は、そうじゃない。だから、好きなの」
 にやりと笑って、ナダルが言った。
「なら、なおさら興味があるだろう? 聞いておいてくれよ。じゃあ」

 その日の夜、レイチェルはセイラを食事に誘い、ブッククラブの次の課題図書を手渡して言った。
「この本よ、次のブッククラブでテーマにするのは。ナダルが選んだんですって」
 セイラは、その本を手に取るとパラパラとめくって、テーブルに置いた。自分にとっては、父親の著書だ。知ってはいたが、読んだことはない。兄さんは、マス家を出ていく以前から、熱心に目を通していた。
「議論が、白熱しそうね。正直この本を読むのは、気が進まないわ」
「ジオンがこのあたりを占領していたのは、ほんの数ヶ月だったけど、その前から、その思想に興味を持つ人も結構いたと思うわ」レイチェルが、言った。
「何と言ったらいいか、‥‥少し、選民思想的なところがあるでしょ? 自分も選ばれた民の一人だって思いたいわけ。宇宙になんて、出たこともないくせに」
 その彼女の口調がおかしくて、セイラはふふふと笑った。
「気が進まないなら、参加しなくてもいいと思うわ。ナダルには、そう言っておくから」
「ありがとう」
 セイラは、運ばれてきたパスタとサラダを、二つの皿に取り分け、そしてビールのグラスを傾けた。
「もう一つ、あなたに聞きたいことがあるんだけど」
 グラスを置くと、レイチェルが言った。
「何かしら」
「誰か、付き合っている人はいるの? ‥‥つまり、恋人ってことだけど」
 サラダを頬張って一息つくと、セイラは答えた。
「いないわ。付き合っている恋人は。でも‥‥」
「でも?」
「‥‥好きな人は、いるわ。だから今は、誰かを恋人にする気はないの」
「そう‥‥」レイチェルが、口ごもった。ふいにセイラの表情が翳った気がしたからだ。
「その人は、どこに?」
「わからない」セイラが言った。
「きっと、元いた街から飛び立っていると思うけど」
「じゃあ、もう会うことはないの?」
 そう言ったレイチェルの瞳をまっすぐに見つめて、セイラは言った。
「待っているの。おかしいでしょ? もう忘れ去られているかもしれないけど、いつか私を思い出してくれたら、と‥‥」
「あなたみたいに素敵な女性を、忘れる人がいるかしら?」
 自分でも驚くほど強い口調で、レイチェルが言った。セイラが驚いて彼女を見た。
「ご、ごめんなさい。‥‥でも、いつかその人と会えるといいわね」
 最後の一言は、自分でも本心なのか上辺の言葉なのか、よくわからなくなっていた。だが、レイチェルは知った。セイラが氷のような表情で、いつも心を隠していることを。彼女はその内側に、脆くて壊れそうなものを抱え持っているのだ。

 レイチェルは、ナダルにはセイラは遠距離恋愛の彼氏がいるから無理みたい、と言っておいた。そして、時折彼女と出かけたり食事をしたりしながら、彼女の待ち人が現れる日を、彼女とともに待っていた。待ち人が来ないまま時が過ぎてゆくことを望みながら‥‥。
 そうして、やがて季節はめぐり、冬がきて、春が訪れ、そして、また夏になった。

 そしてある日突然、セイラ・マスは姿を消した。

 いつも決まった時間に、図書館に来ていたセイラが、姿を見せないことが数日続き、レイチェルは、妙な胸騒ぎを感じた。メールをしても、返事はない。彼女も地元メディアにインターンに行くと言っていたが、そういう時は、必ず事前に話してくれていた。
 もしかしたら、彼女の待っている人が現れて、その人とどこかへ行ってしまったのかもしれない。そうだとしても、何か自分に言い残していくような気がするけれど‥‥
 気がかりだったが、どうしようもなかった。

 それから1週間ほどたった頃だった。いつものように、セイラが図書館で過ごす時間を、レイチェルは同じ場所で過ごすためにやって来ていた。彼女は、その日も姿を見せてはいなかった。落ち着かない気持ちのままで、彼女は本を開いて読もうとした。しかし、少しも集中できなかった。
 そのとき、不意に電話が鳴った。セイラだろうか、と慌てて取ったが、彼女ではなかった。電話の相手は、妙に弾んだ声で言った。
「レイチェル、どこにいるんだ?」
「図書館よ。どうかしたの?」
「それなら、そこでコンピュータを立ち上げてネットニュースを見てみろ、すごいことが起こっているから」
「何なの? ナダル。そんなことを言うために、わざわざ電話してきたの?」
 そう言いながら、レイチェルはモニターに流れる画像に目をやった。そこには、<サイド3>ジオン共和国の首都、ズム・シティの光景が映し出されている。だが、それは異様に見えた。公園に集まる人々の前に、赤い機体を筆頭に、おびただしい数のモビルスーツが屹立していたからである。
「どういうこと? また戦争が始まったの?」
「いや、どうもクーデターが勃発したようだ」ナダルが言った。
「な、俺の見立ては正しかっただろう? ブッククラブで、ジオン・ダイクンの本を取り上げたばかりだ。俺は言ったはずだ、一年戦争は講和で終わったが、これだけでは済まない、ジオンの国民は納得していないはずだ、と」
「それが、言いたかったわけね。わざわざ教えてくれて、ありがとう」
 そう言うと、レイチェルはプツンと電話を切った。得意満面のナダルの顔が、浮かんでくるようだった。モニターの画面では、ニュースキャスターが現地の記者に呼びかけている。

ユニバーサル通信社特派員のカイ・シデンさん。そちらの様子を伝えてください

 その記者は昨夜起こった、ジオン共和国の軍事クーデターについて、知り得たことをレポートしている。政府主催のオペラ公演のため劇場に集まった政府要人はおそらく拘束されているらしいこと、軍を掌握しているのはジオン・ダイクンの血を引くキャスバル・レム・ダイクンという人物らしいということ、全コロニーに戒厳令が敷かれ、首都ズム・シティの宇宙港には、国外へ脱出しようとする人々が押し寄せていることなどを端的に伝えていた。

 画面に、キャスバル・レム・ダイクンと呼ばれる男の映像がインサートされた。前日に開かれた支援者の集会に姿を表したときの映像だという。彼女は、それを見て息を呑んだ。タキシード姿のその男の後ろに一瞬見えた赤いドレスの女性が、セイラにそっくりに見えたからだ。
 まさかね‥‥、彼女はフランス出身だと言っていたし、姿を消したからといって、まさかあんなところにいるはずないわね‥‥
 そう思いながらも、なぜか胸の動悸がおさまらず、彼女はその映像を何度もリピートして見続けていた。

 それから、1週間ほどが過ぎた。ジオン・ダイクンの息子、キャスバル・ダイクンとその支持者たちが起こしたクーデターにより、<サイド3>には厳しい情報統制が敷かれたらしく、何が起こっているのか、地球では情報がほとんど入らなくなっていた。チャールズ川をはさんだ向こう側にあるキャンパスの一角にある寄宿舎では、一本の電話で突然出かけると言い出したアムロを、ダビド、トム、ヒロの三人が送り出していた。
「いやー、それにしても」とトムが言った。
「何があったんだ? あんな不機嫌なアムロ、見たことなかったぜ、今まで」
 ヒロが、肩をすぼめた。そういえば、トーキョーの避難民居住区にいたときのアムロは、むしろ機嫌よくしている時のほうが稀だった。いつも塞ぎ込んでいるか、ぼんやりしているかで‥‥、そこから立ち直ったのって、何があったっけ? そんなことを考えているうちに、ヒロはあの日、居住区のアパートの彼の部屋を訪ねてきた金髪美女のことを思い出していた。あの女性がアムロを探しにやって来て、それからだっけ? 彼が、今いる大学に行くって決めたのは‥‥。「すっごいきれいな金髪のお姉さんがおまえを探して僕んちに来たけど、あれ、誰?」って僕が聞いたとき、アムロはなんだか、いつになく動揺していたな。で、結局あの女性は、誰だったんだろう‥‥?

 アムロが出かけてから、3日ほどたった頃だっただろうか、再び<サイド3>からニュースが入ってきた。キャスバル・ダイクンとその支持者のクーデターは失敗に終わり、蜂起した市民らにより、拘束されていたダルシア首相らが解放された、というのだ。それに伴って情報統制も解かれたらしく、混乱した首都ズム・シティの様子をとらえた映像が次々に画面に流れ始めた。
 報道によれば、クーデター失敗のきっかけになったのは、キャスバル・ダイクンが搭乗するはずだった赤いモビルスーツを何者かが乗っ取ったことだったという。そのモビルスーツを追ってモビルスーツ部隊がコロニーから宇宙へ出て行くという大混乱の最中、ジオン・ダイクンのもう一人の遺児、アルテイシア・ソム・ダイクンがクーデター不支持の声明を出し、形勢は完全に逆転した。
 ニュースで、赤いモビルスーツが乗っ取られる瞬間の映像が流れたとき、ヒロは「あっ」と思わず声を上げた。そのコクピットに乗り込んだ男の姿が、アムロに見えたからだった。
「ま、まさかね‥‥」とひとり、ヒロはつぶやいた。そのとき彼は、乗っ取ったモビルスーツでアムロが、兄に捕えられたセイラを<サイド3>から脱出させようとしていたことを、知る由もなかった。

 セイラが姿を消したことに気づいた日から、夜の散歩がてら、彼女のアパートの前を通って窓に灯りが見えないか、確認するのがレイチェルの日課になっていた。
 その日の夜も、アパートの前までやってきた。窓を見上げ、そして彼女はため息をついた。やはり灯りは、点いてはいなかった。もう、このまま戻らないのだろうか。せっかく、親しくなれたと思ったのに。あと一歩、近づきたいと思っていたのに。
 そう思いながら通りすぎたとき、背後から近づいてきた車が、アパートの前で停まり、ドアが開いて誰かが降りてきた。運転席側からはグレーのアウトドアジャケットを着たジーンズ姿の男、そして助手席からは、淡いピンクのサマーニットを身につけた女。
 その姿を見て、レイチェルは息を呑んだ。ずっと姿を消していたセイラが、そこにいた。
 車から降りた男は、彼女を待っている。セイラは車の後ろを回り込むと、その男のところへ行き、そっと、腕に手を置いた。
 誰だろう。レイチェルは、その二人から目を離すことができなかった。何を話しているかはわからなかったが、街灯に照らされて、彼女の顔が輝いて見えた。レイチェルが、まだ見たことのないやさしい目で、彼女はその男を見つめている。やがて二人はどちらともなく唇を重ね、その影が一つになった。
 レイチェルは背を向け、気づかれないようにその場をあとにした。

‥‥そうなのね、セイラ。あなたは、待っていた人に会えたのね‥‥その人には、あなたはそんなふうに、素顔のままの微笑みを向けられるのね‥‥

 なぜか、その目から涙がこぼれた。レイチェルには、それが彼女の喜びためなのか、自分の悲しみのための涙なのか、もはやわからなくなってしまっていた。

 週が明けても、レイチェルはなぜか、心にぽっかりと穴が空いたような感じがしていた。誰にも会いたくないと思いながら、キャンパスを急足で歩いていると、ばったりとセイラと鉢合わせてしまった。
「まあ、レイチェル。探していたのよ、ずっと」
 セイラが言った。
「謝らなければいけないと思って。何の連絡もなしに、出かけてしまったから」
「いいのよ、そんなこと。気にしないで」
 レイチェルは、そう言いつつ彼女の横に立つ男を見た。セイラより少し背の高い、赤い癖毛のベビーフェイスで、それが彼女には意外な気がした。
「きっと、会えたと思ったの、あなたが待っているって言っていた人に。違うかしら?」
「ええ、そうなの」
 セイラは、横に立つ男を見て微笑みかけた。
「彼が、この大学のキャンパスを見たいというから、案内していたの。紹介するわ。アムロ・レイ。私が待っていた人よ」
 よろしく、と彼はレイチェルに手を差し出した。知的な目をしている、セイラと同じように、と彼女は思った。
「どこで、再会を?」
 二人は顔を見合わせると、ふふふ、と笑った。
「それがね、お互いに少しも知らなかったのだけど、彼はあの川の向こうの大学にいたのよ」
「よかったら今度、僕がキャンパスを案内しますよ」と、アムロが言った。
「こことは違って、オタクの巣窟だけど」
 その彼の言葉に、ついレイチェルはクスッと笑う。そして気がつくと、彼女は二人と並んで歩き始めていた。この人たちとなら、彼女のように自分も素顔のままで、いられるかもしれない。
 いつしか彼女は、心の中の涙が乾いていることに気がついた。

inspired by this song Billy Joel :Just the way you are(邦題:素顔のままで)

〜Fin〜

ちょっとしたあとがき

 本作は、別シリーズ「機動戦士ガンダム0085 姫の遺言」の前後のアムロとセイラを、彼らの友人の視点から描いた、短編です。アムロとセイラ、それぞれの大学生活の日常ってどんな感じかな?というのを、表現してみたかったのです。
 舞台となっている大学は、それぞれ名前は出していませんが、実在の大学です。Googleマップでボストンの地図をご覧になると、川をはさんで二つの大学があるのが、おわかりになると思います。

 マーク・ザッカーバーグがfacebookを立ち上げて成功するまでを描いた映画「ソーシャル・ネットワーク」も、この周辺が舞台だったので、雰囲気を感じるために視聴しました。ボート部のエピソードは、その映画でボート部の双子の兄弟が出てきたことで、思いついたものです。新歓レガッタは、古の昔、私が大学生の頃に体験した行事です。
 ちなみに、マーク・ザッカーバーグはハーバード大学在学中に、ボート部の双子の兄弟のアイデアをパクってFacebookを作ったのですが、その大学の雰囲気というのは、なかなかすごいものです。天才の集まりですが、人間的にはgreedで他人の気持ちを顧みないというか・・・今も昔もアメリカの政財界を牛耳る人たちの出身校ですが、そりゃこういうところにいたら、地球連邦政府も腐るよなとは思いました。

 このシリーズは、宇宙世紀0090の、カミーユたちが登場するシリーズに続きます。やがてアムロは大学をやめて、連邦軍に戻っていくことになりますが、そのへんのお話も、そのうち、このシリーズで書いていければと思っています。

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