見出し画像

機動戦士ガンダム0085 #3 遥かなる影 (They Long To Be)Close To You

機動戦士ガンダムで描かれた、宇宙世紀0079の戦争が終結したあとの、ホワイトベースの人々のお話シリーズ第2弾です。アムロとセイラが再会を果たすシリーズ「機動戦士ガンダム After the War 0085 姫の遺言」の後のお話です。

 ジオン共和国の政権を武力で奪取しようとしたクーデターに失敗したシャアは、月面都市グラナダで秘書のマルガレーテと再会。これまで負ってきた地位と名前とを捨てて、自由に生きる道を見出す。一方ジオン本国では、行方不明になったクーデター首謀者のキャスバル・レム・ダイクンを警察が追っていた。リロイ刑事は重要参考人であるセイラ・マスに話を聞くため地球へ向かう。

登場人物
セイラ・マス  北米・ボストンの地元メディアで働く記者
アムロ・レイ  北米・ケンブリッジの大学の学生

キャスバル・レム・ダイクン 
  ジオン建国の祖ジオン・ダイクンの長子。
  一年戦争時はシャア・アズナブルを名乗り、ジオン公国軍の
  エースパイロットとして活躍した。
  宇宙世紀0085に自ら起こしたクーデターに失敗した後失踪。
マルガレーテ・リング・ブレア
  元キシリア親衛隊の一人でキシリア・ザビの秘書を務めた過去を持つ。
  クーデター時キャスバルの秘書を務めていたが、その後姿を消す。

リロイ・ドロアス  ジオン共和国・ズム・シティ首都警察 特任刑事
レニー・ジョンソン リロイの部下でともに捜査活動に取り組む刑事
カニンガム・ショー リロイらと捜査協力をする連邦警察の女性捜査官
ジュード・ナセル  デイリー・ジオン・サンライズの記者


 グラナダのダウンタウンは、妖しげな光で満ちていた。ジオン公国が地球連邦に対して独立戦争を仕掛ける前後、月の裏側に位置する月面都市グラナダはジオン公国領であり、ジオン公国最大の軍事基地があった。数々の名機を生み出した工廠もあった。今も、ここには巨大な軍事基地がある。だが、駐留する軍隊が代わった。一年戦争終結時、グラナダは講和の条件として地球連邦に割譲された。だから今、そこにいるのは地球連邦軍である。
 月の表側にある都市、フォン・ブラウンと同じく、地球連邦はグラナダを独立自由都市として承認した。旧ジオン軍と政府関係者は街を去ったが、市民は残った。そして、連邦国家の多くが国是とする自由主義の味を知り、それを都市の空気とするようになった。
そして今、自由を求めて、羽虫が夜の街灯に集まるように人々がこの都市の妖しげな光の下に集まっている。

 チャーリーの店は、そんなグラナダのダウンタウンの一角、煉瓦造りを模したビルの半地下になったところにあった。薄暗い店内には、「彼」の他に客はいない。
 ところでマスター、と「彼」は言った。オンザロックのバーボンのグラスが、空いている。ここに来れば、いい名簿屋を紹介してもらえる、と聞いたのだが。
 マスターは、場末のバーであるにもかかわらず、蝶ネクタイに黒のベストというきっちりとした出で立ちで、白くなった髪をきれいに後ろになでつけていた。名簿屋、という言葉に目をあげ、「彼」を見る。
「なんとお呼びすればいいのでしょう。総統閣下か、それとも大佐か」
「もう、そのどちらでもなくなった」と「彼」は言った。そのとき、扉が開いてトレンチコートの女が入ってきた。
「ここにいたのね、大佐」と女は言った。すっ、とカウンターバーの「彼」の隣のスツールに腰掛けると、マスターを見てにっこり笑った。
「ここにいると、よくわかったな、マルガレーテ・リング・ブレア」と「彼」は以前の秘書の名を呼んだ。
「あら、大佐はご存知でしょ? 私も元はキシリア親衛隊の一員だった、ってこと」
「匂いか?」
「そう、匂いよ」そう言うと、彼女はすっと指を伸ばして「彼」がかけていたレイバンを外した。
「名簿屋へご案内する準備ができました」マスターが言うと、カウンターバーから出てきて、右側のドアを開けた。「彼」は立ち上がると、女の方を向いて言った。
「来るかい?」
 女はにっこり微笑むと、立ち上がった。

 地下の奥まった一室で、名簿屋は膨大なリストの中から、「彼」に一つの地球連邦市民のIDナンバーを示した。

 クゥエル・ベルナルド・バジーナ、男
 宇宙世紀0059年11月7日生まれ
 <サイド2>出身
 地球連邦軍 大尉。
 一年戦争時、ソロモン攻略戦において消息を断つ。

「悪くないな」
 名簿屋はにやりと笑った。「そうだろう。生年月日が10日違いなだけだ」
「連邦軍の所属部隊は?」
「ティアンム艦隊のどれかの船に乗っとったらしい。モビルスーツのパイロットだ」名簿屋が答える。
「ちなみに、愛称は〝クワトロ〟、四隻の戦艦を沈めたから、と言いたいところだが…、残念ながら、そんな腕利きは連邦軍にはおらなんだ。バジーナ家の四男坊ということらしい」
「家族と、他の三人の兄弟は?」
「コロニー落としで、全員消息不明。おそらくは、死亡だ」
「…労しいことだ」
 名簿屋が、眉をひそめる。
「だが、私にとっては好都合だ、どうだ、マルガレーテ?」
「クゥエル・ベルナルド・バジーナ、通称クワトロ・バジーナ。いいんじゃない?」女が答えた。
「私、QBって呼ぶわ」
「では、IDカードをご用意しましょう」
 指を立てて制すると、「彼」は言った。「彼女の分も、頼みたい。希望はあるかな?」
 女は言った。
「ロミーっていう名前が好きなの、私」
 名簿屋が、検索を始める。「お嬢さん、生年月日は?」
「0061年2月14日」
 しばらくして、名簿屋がリストの中から一つを示した。
「これで、いかがでしょう」
「ロミー・シュナイダー、いいわね。気に入ったわ」
「では」と「彼」が言った。
「二つで、いくらになる?」
 名簿屋は、指を三本立てて示した。「彼」はにやりと笑うと、言った。
「いい商売だ。支払いはIDカードと引き換えだ。いいな? いつできる?」
「三日後に」名簿屋が言った。
「認証用の写真を撮る。そのおつもりで、シャア・アズナブル大佐」
「その名前とも、これでさらばだ」シャア、と呼ばれた男が言った。

 三日後、二人は新しいIDを手に入れた。チャーリーの店を出ると、路上駐車していた車に乗り、エンジンをかける。
 へーゼルの瞳に濃いブラウンの髪の女、ロミー・シュナイダーが言った。
「ねえQB、これから、どこへ?」
 クワトロ・バジーナと名乗ることになった、金髪碧眼の男が言った。
「私を、スーパーの安売りのチーズのような名で呼ぶつもりか」
「いいじゃない」ロミーがクスクスと笑う。
「あなたは、もう総統閣下じゃないし、私も秘書じゃない」
 クワトロが、黒いレイバンをかけた。
「ねえ、どうするの?」
「地球圏を、旅する」彼が答えた。
「シャア、という男がいなくなった世界がどうなるか、見せてもらうではないか」
 彼はアクセルを踏んだ。二人を乗せた車は、ダウンタウンの光と闇の中へ、消えていった。

「ここだ、この場面をもう一度見せてくれ」
 照明を落とした解析室のモニターの前で、リロイ・ドロアス刑事は鑑識官の手を止めさせて、言った。指示通り、鑑識官は映像を巻き戻して再生する。
「ここだ、直撃を受けたのはコクピットではなく、右腕だな?」
「そうです」
 次の瞬間、そのモビルスーツは再度爆発して後方へ吹き飛んでいくが、鑑識官は、それはこの映像で見切れている、画面左側のモビルスーツのコクピットが直撃を受け、エンジンが爆発した際の発光が映り込んで、爆発しているように見えているだけだ、という。
「もう少し、解像度を上げてはっきり見ることはできないのか」
 リロイの要求に、鑑識官は首を振った。
「モビルスーツのコクピット内部のモニターの戦闘記録映像ですからね、しかも場所が宇宙空間です。<サイド3>領空は月の裏側で、太陽光も地球光も十分には届きません。なので、いくら解像度を上げても、これ以上は‥‥」
「わかった、よくやってくれた」リロイが言った。その隣で、同じく刑事のレニー・ジョンソンが肩をすぼめる。
「よく、パイロットの連中はこんな暗闇で、敵味方を見分けて命中させられるもんですね」
「奴らが、ニュータイプなどと持てはやされるのも、無理はないな」
 鑑識官が、解析室の照明をつけた。リロイが、腕を組んで言った。
「ということは、奴は撃墜はされていない、ということで間違いないな」
 レニーが、頷いた。
「この右腕が欠損したモビルスーツは、発見されないままか?」
「はい、軍に確認しましたが、戦闘中行方不明だということです」
 リロイとレニーが、顔を見合わせる。
「つまり、奴は戦闘中に直撃を受けたことに乗じて、そのまま姿を消したというわけだ。<サイド3>の領域を出てしまったとしたら、まずいことになるな」
 二人は立ち上がると、鑑識官に礼を言い、解析室を後にして自らのデスクに戻った。被疑者が地球連邦に属するコロニーや地球本土に逃亡した場合、連邦警察へ捜査協力を依頼しなければならない。しかも<サイド3>ジオン共和国が犯罪者引渡条約を締結しているのは<サイド6>と月面都市の一つアンマンのみで、捜査協力が実現したとしても、連邦諸州が確保した被疑者の引き渡しに応じるかどうか、確約はできない状況にある。
「背に腹は変えられんな」
 リロイが言った。

 彼らが行方を追っているのは、3ヶ月前の宇宙世紀0085年8月10日、ジオン独立記念日にあわせて勃発したクーデターの首謀者、キャスバル・レム・ダイクンである。罪状は国家転覆罪で、検察側の求刑は間違いなく、死刑となるだろう。
 重要参考人として、リロイは被疑者と同時に姿を消した二人の女性をピックアップしていた。一人は彼の秘書だった、マルガレーテ・リング・ブレア。そしてもう一人はセイラ・マスの名前で地球連邦から入国していた彼の妹、アルテイシア・ソム・ダイクン。
「君はジオン国内で、マルガレーテ・リング・ブレアの捜索に当たれ。私は連邦警察に捜査協力を申し出て、妹の方に接触を試みる」
「了解」
 気合いを入れるようにパン、とリロイが大きく手を叩いたのを合図に、二人は立ち上がった。

「おい、嘘だろ?!」
 届いたメールを開いて、ジュードは思わず声をあげた。いつか取材して。そう言い残して、連絡先も告げぬまま去っていったあの人の名前が、そこにあったからだ。
 デイリー・ジオン・サンライズのジュード・ナセルは政治記者として、ジオン共和国の首都ズム・シティでダイクン派と呼ばれる一派の動向を追い続けていた。3ヶ月前、ジオン・ダイクンを父に持つキャスバル・レム・ダイクンを担ぎ上げることで一気に全軍を掌握した彼らは首都を制圧し、穏健派であるダルシア首相以下の閣僚を拘束した。しかし数日後、一人の女性のあげた声が、戒厳令の敷かれた首都の人々を突き動かした。
 彼女はキャスバルらが予定していた凱旋パレードの前夜、ジュードに電話をかけてきた。ジオン・ダイクンの娘として取材に応じたい、というのだ。そしてキャスバル・レム・ダイクンが演説する最中、彼女は自らの声明を出した。彼女は、やすやすと軍門に降ったジオン国民に対して「地球連邦の人口の半数を死に至らしめるほどの犠牲の上に勝ち取った、あなたがたにとっての『独立』とは、その程度のものだったのでしょうか」と問いかけ、真の独立のためには、たとえ一人ひとりが弱く無名な存在であっても決してその自由を手放してはならないと訴えた。
 一人の反逆者が操縦するモビルスーツで、そのままズム・シティから飛び立とうとする彼女に、思わずジュードは「あなたがたは一体、何者なんですか?」と問いかけた。その時の答えを、ずっと握りしめていたのだ。彼女は言った。いつか取材して、と。
 メールで彼女は、ズム・シティのコロニーを脱出したあと地球連邦軍の救難艇に救助され、無事住まいに帰り着いたこと、大学を出て地元メディアで記者として働き始めたこと、デイリー・ジオン・サンライズのメディアとしての姿勢に感銘を受けたこと、この経験を通して自分がジャーナリストとして伝えるべきものをはっきりと掴めたこと、などについて書き記し、ジュードへの感謝を伝えていた。
 そして最後に、彼女が「いつか取材して」と言っていたことについて言及していた。一年戦争時、彼女はジオン軍が<木馬>と呼ぶ戦艦に搭乗して参戦していたこと、<木馬>はシャア・アズナブルの部隊やランバ・ラルの部隊と交戦しオデッサ作戦にも参加、その後第13独立部隊として地球連邦軍ティアンム艦隊に編入されたこと、ア・バオア・クーの戦いで大破し、部隊そのものが連邦軍によってAAAの極秘事項とされたことが記されていた。現在、彼女のいた部隊の資料に、連邦側からはアクセスできないという。取材を受ける前に、まず旧ジオン軍に残る<木馬>の資料をあたって、その実像を掴んでおいてほしい。それが彼女の出した条件だった。
「やはり、只者ではなかったな」
 ジュードは、つぶやいた。彼女も、そして彼女を迎えに来たという人物も。この件は、長い時間がかかりそうだ。彼は、今世間をざわつかせている案件に目を向けた。

 彼が追い続けている、ダイクン派の動向と関わりがあるのだが、どうも世間はこれを、スキャンダルと見ているようである。クーデターが終わってみると、ダイクン派の活動資金の銀行口座が空になっていた、というのだ。そうでなくても逮捕者が多数出ているダイクン派内部では、混乱に乗じて活動資金をメンバーの誰かがそっくり盗み出したのではないかと、疑心暗鬼になっており、すでに組織は崩壊寸前となっていた。
 ゴシップメディアによると、活動資金をごっそり口座から下ろして行ったのは、キャスバル・レム・ダイクン総帥の秘書にして愛人のマルガレーテ・リング・ブレアとみられている。もっともキャスバルは独身のようだったから、愛人という表現には語弊があるが。
 いずれにせよ、消えたダイクン派の活動資金とキャスバルの愛人は、ゴシップ記者に追ってもらうことにして、ジュードは、今回のクーデター計画がどこで生まれて、どう展開していったのか、その経緯を探らなければならない。
 撃墜され死んだと思われているキャスバル・レム・ダイクンだが、ズム・シティ首都警察は、生存している、と見ているようだ。発見されれば、面白いことになる。彼にもインタビューしてみたい、とジュードは思いつつ、セイラ・マスのメールに返事を書いた。

 地球に降りたリロイ・ドロアス刑事を空港で出迎えたのは、連邦警察北米支部の捜査官だった。黒い髪をショートカットにした、すらりと背の高い女性である。年齢はまだ20代後半とおぼしく、もうすぐ50に手が届こうかというリロイは、随分舐められたものだと内心思う。
「ジオン共和国、ズム・シティ首都警察特任刑事のリロイ・ドロアスだ」
「連邦警察のカニンガム・ショーです。どうぞよろしく」
 彼女が手を差し出し、二人は握手した。
「あまり時間がありません。参考人の居所は押さえてあります。早速、向かいましょう。詳細は車の中で」
 カニンガムはそう言い、ルロイを乗せて目的地へ車を走らせた。

 目的の場所に着いたときには、もう薄暗くなっていた。
「このアパートです」
 カニンガム捜査官が入り口でインターフォンを押したが、返答はない。
「まだ、戻っていないようですね。少し待ちましょう」
 12月に入り、気温は0度近くになっている。コロニー育ちで寒さに慣れないリロイは、思わず身震いしてコートの襟を立てた。その様子を見て、カニンガムが笑う。
「ボストンの冬は、こんなものではありませんよ。あのチャールズ川が、凍結するんですから」
 リロイは、不思議な面持ちで空を見上げた。街の様子は大差なく見えても、風景は全く違う。突き抜けるように広がる空、そこに浮かぶ月。どこからともなく吹いてくる冷たい風が、彼を震えさせる。
 しばらくすると、通りをゆく人の中から、カニンガムが彼女を見つけ、入り口まで来たところで声をかけた。
「失礼、セイラ・マスさんですね?」
 呼び止められた彼女は、ベージュのトレンチコートの裾を翻してこちらを見た。リロイはその眼差しを見てはっ、と息を呑んだ。
 似ている‥‥。あの男、我々が追いかけている、あの男の眼差しに‥‥。
「私は連邦警察のカニンガム・ショー。こちらは<サイド3>から来た、ズム・シティ首都警察のリロイ・ドロアス刑事です。あなたが今年8月に<サイド3>を訪問された件で、お聞きしたいことがあるのですが、捜査にご協力いただけますか?」
「捜査、というと?」セイラ・マスが問いかける。リロイが答えた。
「ご存知の通り、<サイド3>では8月にクーデターが勃発しました。その試みは失敗に終わりましたが、首謀者と目されるキャスバル・レム・ダイクンが混乱に乗じて行方不明となっており、我々ズム・シティ首都警察は、連邦警察に捜査協力を願い出て、捜索に当たっているのです」
 セイラはカニンガムとリロイの顔を交互に見て、言った。
「わかりました。私のわかる範囲でしたら、なんでもお話します。どうぞ、お入りになって」
 二人はセイラの部屋に招き入れられ、彼女がこの夏<サイド3>に行った経緯とその時見聞した状況などについて、2時間近くにわたって話を聞いた。

 連邦とジオン、二人の捜査官が出ていくと、セイラはふうっと大きく息を吐き、身を預けるようにソファに腰をおろした。

 疲れた‥‥

 行方不明の兄、クーデター首謀者の兄を警察が追っている、地球連邦をも巻き込んで、ということが、まず彼女には衝撃だった。つまり、兄キャスバルはどこかで生きているということなのだ。そうかもしれない、とは思っていたが、捜査機関が動いているとなると、その信憑性は格段に高まる。
 そして、兄がもし捕えられれば裁判にかけられ、何らかの刑に服さなければならないことは間違いないだろう。もし、次に再会することがあるとしたら、それは法廷の場かもしれない。だが、セイラは、もう兄のことで逡巡したり躊躇したりすることはなかった。それでも、それなりに言葉を注意深く選んで話す、というのは、神経を使うものである。しかも、話しても心が軽くなるわけではない。
 時間は、もう7時半を過ぎている。遅くなってしまったけれど、気分転換にもなるし夕食はちゃんと作ろうと、彼女は立ち上がり、ようやく部屋着に着替えるとキッチンに行って料理を始めた。

 材料を揃え、皮を剥き、切ったり刻んだりし、火にかける。一連の作業でいつもは無心になれたが、このときは、いろいろな考えが頭を過ぎり、少しも集中できなかった。気がつくと、一人では食べきれないほどの量が鍋の中でぐつぐつと音を立てている。その音を聞きながら、セイラは思った。怖いのだ、私はまた、怯えている。兄さんが、キャスバル兄さんが生きていて、また、多くの人を動かそうとしている。本人にその気がなくても、なぜか、兄には磁力のようなものがあって、引き寄せられていってしまうのだ、もっと近くへ、と。
 自分もそうだった。そして、もし彼が生きて再び自分の前に姿を現したら、どうだろう。きっと裏切られるとわかっていても、またもや彼に引き寄せられてしまうのではないか。優しかった頃の兄さんを、今度こそ取り戻せる、と。
 鍋が吹きこぼれそうになっているのに気づいて、彼女は火を弱めた。そして、ふと思う。作り過ぎた料理を、別に一人で食べなくたっていいじゃない、と。
 そして、携帯端末を手に取った。今まで、こんなことはしたことがないけれど、一人で過ごしたくない夜には、少しぐらい甘えてもいいわよね? そう思いながら、セイラは通話のボタンを押した。
「アムロ? もう食事は済んだ? ‥‥いつも遅いわね、でも良かった、ポトフを作り過ぎちゃったの。せっかくだから、良かったら今から一緒にいかが? ‥‥ええ、わかったわ。じゃあ、1時間後に。待ってるわね」

 それからきっかり1時間後にインターフォンが鳴り、セイラはやって来たアムロを部屋に招き入れた。着古したグレーのパーカーの上にワインレッドのダウンジャケットを羽織り、青いジーンズを履いている。右手に持ったワインのボトルを彼女に手渡すと、少しはにかんだ笑みを浮かべながら、背中に手を回して彼女を抱きしめた。セイラは、その胸に顔を埋めた。もう、一人で戦わなくてもいい、と思うだけで、気持ちが落ち着いた。
 やがて顔を上げると、彼のダウンジャケットを脱がせて、コートハンガーに掛け、二人は食卓についた。
「ひさびさに、まともな食事ですよ」とアムロが言った。
「どうして?」
「ダビドが料理にはまってるんだけど、食材を分子レベルで解析して真のおいしさを引き出す、とかいう分子料理ってやつで、しょっちゅう、変なものばかり試食させられてるんですよ」
「まあ、どんなもの?」
「ホワイトベースで出てきた、戦闘食みたいなやつですよ、ほら、チューブに入った」
 セイラが眉をしかめて言った。
「最悪ね」
 アムロが笑い、彼女も笑った。そして食事をし、彼が持ってきたワインを注いだグラスを傾けた。何気ない会話が、彼女の心を落ち着かせた。
 しばらくして、アムロが言った。
「あの、セイラさん。何か、あったんですか?」
「えっ?」
「こんなふうに、家に食事に呼んでくれたの、初めてだから‥‥、何かあったのかと」
 セイラが、肩をすぼめた。
「ええ‥‥、少しね。ちょっと嫌な話を聞いて、それで、一人で夜を過ごすのが辛くなったの」
「嫌な話?」
 セイラは、じっとアムロの目を見た。今日あったことは、彼にも話しておかなければならなかった。
「ええ、そう。実は今日、警察が来たの。連邦警察と‥‥ズム・シティ首都警察の捜査官が。クーデター失敗後に行方不明になったキャスバル・レム・ダイクンを捜索しているんですって。それで、あの日のことを聞かせてほしいと」
「シャアを‥‥探している‥‥、それはつまり、犯罪者として?」
「そういうことになるわね」
 セイラは、グラスを傾けてワインを一気に飲み干した。
「アムロ、あの時‥‥、シャアが乗るはずだったモビルスーツを奪ってズム・シティから逃げたとき、あなたは追跡してきたシャアの搭乗機を、撃ったわよね、わざと外して」
 アムロが、頷いた。
「それは、彼を逃れさせるため?」
「逃れるにしても捕まるにしても、彼のことをどうするか、裁くのか、認めるのか、というのは僕たちが決めることじゃない、ジオンの人たちが決めることだ。ただ、僕は‥‥」アムロはそこまで言うと、口を閉じて目を伏せた。その視線を追いかけるように首を傾げて、セイラが言った。
「ただ‥‥、なあに?」
 その問いかけに、アムロは目を上げると小さく笑った。
「ただ、僕は、できることなら逃げ切って、違う人生を選んでほしいと思ったんだ。多分‥‥、彼はこれでジオン・ダイクンの息子、としてやるべきことをやり終えた、そしてやっと自由になって、本当の自分の人生を生きられるようになる、と思ったから‥‥」
 セイラは、テーブルの上で腕を伸ばして、アムロの手に手のひらを重ねた。彼は手首を返すと、彼女のその手をぎゅっと握った。

 ボストンの中心部にカニンガム捜査官が取っておいてくれたホテルの部屋で、ようやくリロイはコートを脱いでネクタイを緩めると、ベッドの上に倒れ込んだ。体が異様に重く感じるのは、地球の重力にまだ慣れていないからだろう。しかし、それだけではない、と彼は思った。ジオン・ダイクンの娘、という宿命を負った女性に図らずも出会い、彼女が生きてきた20数年の人生の重さを、ひしひしと感じたからかもしれない。
 それにしても、不思議だ。コロニー育ちの彼が40数年の人生の中で地球に降りたのは初めてだった。だが<サイド3>がジオン公国を名乗り、地球連邦がコロニーで生きるスペースノイドに自治権を与えず不当に差別していることに対する怒りと反抗の意を表し、ついには戦争という手段に打って出なければならなかったほどに、果たして自分たちは迫害されていたのだろうか、と疑問に思うくらい、地球上で過ごすことに違和感がなかった。醒めてみると、よくわからなくなる。一年戦争のときの、ギレン・ザビの演説に奮い起こされたあの熱狂はなんだったのだろうか、と。
 リロイは、立ち上がるとコンピュータを置いたデスクに向かった。今日中に報告書をまとめて、送信しておかなければならない。マルガレーテ・リング・ブレアを捜索しているレニー・ジョンソン刑事からの報告も届いている。
 それによると、彼女は旧ジオン軍で突撃機動軍の総司令官だったキシリア・ザビ少将麾下の諜報組織、キシリア親衛隊の一員だったという。こちらも、只者ではなかったというわけだ。そういう人物なら、秘書という立場を利用して銀行口座から活動資金を全額持ち出すことなど、造作もないことだろう。レニー刑事は、おそらくはクーデター後の混乱に乗じてズム・シティから退去し、<サイド6>を経由して月面都市グラナダへ向かったものと推測していた。グラナダは、かつてジオン領であり、キシリア・ザビ少将が本拠とする巨大な軍事基地があった場所だ。また、旧世紀の近世と呼ばれる時代に流行したバロック様式を取り入れた、壮麗なザビ家の離宮もあった。彼女にとってはまさに、自分の庭といっていい場所だろう。
 ルロイら捜査官にとっては、魔窟だった。一年戦争終結時、講和の条件として地球連邦に割譲された現在のグラナダと、ジオン共和国との間に国交はない。恐らく彼女の手引きで、キャスバル・レム・ダイクンもグラナダへ逃亡したとみていいだろう。以前から、グラナダにはザビ家亡きあとのジオンへの帰還を拒否した旧ジオン軍人らが潜伏し、残党化しているという報道も流れている。そうした一派とキャスバル・レム・ダイクンとが結びつけば、政治的にも軍事的にも、再びジオン共和国を脅かす組織になることは想像に難くない。だが、それはもはや、一介の刑事にすぎないリロイの捜査でどうこうできる範疇を超えている。
「考えすぎだな」
 そうつぶやくと、リロイは今日のセイラ・マスへの会見で得られた情報を、報告書にまとめた。もう一つ、2時間近い滞在中にコートのポケットにしのばせた生体反応感知センサーによれば、彼女が室内に何者かを匿っていると思しきデータは得られなかった。もし、何らかの手段でキャスバルが地球に降りていたとしても、この広大な場所を捜索することなど、彼には不可能に思えた。また、その権限も与えられてはいない。
 リロイは書き終えた報告書を送信すると、コンピュータを閉じた。恐らく、ここではこれ以上の情報は得られないだろう。だが、セイラ・マスの話に出てきた青年のことが、気になった。クーデター勃発の際、キャスバルに監禁された彼女を救出し、盗んだモビルスーツでズム・シティのコロニーを脱出させたという青年だ。リロイは聴取したかったが、連邦警察のカニンガム捜査官は、事前に申請がなかった人物の照会はできないと、それを拒否した。だが、アパートを出てしばらくしたところで彼女が電話をかけてきて、もし個人的に彼と話したいなら、連絡先を教えてもいい、と言ってきたのだ。
 彼はもう一度コンピュータを立ち上げ、セイラから教えられたアドレスに、メールを送った。

 二人は食事を終え、キッチンのシンクの前に立っていた。セイラが食器を洗い、それを受け取ったアムロが拭く。彼はセイラの横で、システムキッチンの縁に尻を乗せるようにして、立っている。その様子がおかしくて、セイラはくすくすと笑った。
「何しているの」
「今日、僕を呼んだのは、警察が来た話をするため?」
「ええ、そうよ。あなたのことも話した。ジオンから来た刑事は、すごく興味を持ったみたいよ。あなたに。でも、連邦警察の捜査官は、申請のなかった人物に聴取はできない、って。だから、二人が帰ったあとで、ジオンの方の刑事に電話して、あなたの連絡先を教えたの。‥‥よかった?」
 アムロは、手にしたワイングラスを、光にかざしながら磨いている。
「もし連絡があったら、話してあげて、あなたが私と、兄のために何をしたか」
「うん、わかった」
「だけど、それだけじゃないわ」
 そう言うと、セイラは、アムロの手からワイングラスを取って棚に置く。
「夜を一人で過ごしたくないの」
 振り向いた彼女の頬を両手で挟むと、アムロはキスする。しばらくして、セイラが閉じていた目を開くと、唇を離して言った。
「わかってくれるでしょ?」
 それには答えず、アムロはセイラを抱き上げ、その首筋に唇を近づけて、言った。
「セイラさん、いいにおいがする」
 それから、そのまま寝室へ行き、互いの衣服を脱がせ合うと、ベッドへ倒れ込んだ。

 夜がとっぷりと更けていた。二人の口から漏れていた吐息と声も、静まっていた。アムロは半身を起こすと、横たわっているセイラの顔に降りかかる金色の髪をそっとはらい、もう一度唇を重ねた。セイラが、彼の右の上腕部に目をやった。あのとき、一年戦争の最終決戦の場となったア・バオア・クーの一角で、シャア・アズナブルと互いに剣を取り合い生身の戦いになったとき、シャアに貫かれた傷跡があった。
 セイラは、その傷跡に触れて言った。
「こんなに、残ったままなのね。あのときの傷跡が‥‥」
「どうってことないですよ」アムロが言った。
「それでも、生きている」
「‥‥ヘルメットがなければ即死だった、って、兄さんは言ってたわ」
 傷跡を、セイラはそっと撫でつづけている。
「もしそうなら、僕も死んでいただろうね、あなたの手にかかって」
 セイラは、赤茶けたアムロの癖毛を、そっとかき上げた。
「‥‥バカね」
「ヘルメットは大事、って話でしょ?」
「ちがうわ」セイラが言った。
「私は今幸せ、って話よ」
 アムロは体を伏せると、薄明かりの中白く浮かび上がる彼女の肌に手を滑らせた。

 翌朝、リロイはセイラ・マスに紹介された青年、アムロ・レイからメールの返事が届いているのに気づいた。それほど長く滞在はされないのでしょう。今日の午後なら時間が取れます。ボストン美術館はご覧になりましたか。人気の観光スポットです。館内でたまたま出会って、少し話したというくらいなら、あなたの任務にも差し障りないのではないでしょうか。僕は日本アートのギャラリーのあたりにいると思います。見かけたら、声をかけてください。返事にはそう書かれていた。
 明日には、ここを発たなくてはいけない。首尾よく昨日、セイラ・マスと会うことができたので、今日一日は予定が空いていた。美術館か、気が利いているな、とリロイは思った。せっかく地球へ降りるなら、歴史あるものが見てみたいと思っていたからだ。調べてみると、丸一日かけても全部は観て回れないほどの規模らしい。
 彼はホテルで早々に朝食を済ませると、タクシーを拾って美術館へ向かわせた。

 キャスバル・レム・ダイクンの行方を追う者たちはまだ誰も、彼がその名を捨てて自由な身分を手に入れたことも、すでに<サイド3>も、そして月面都市グラナダからも遠く離れて旅していることも知らずにいた。

inspired by this song  CARPENTERS:(They Long To Be)Close To You(邦題「遥かなる影」)


〜Fin〜


ちょっとしたあとがき

 もう15年ほど前、同じタイトルで「逆襲のシャア」の前、地上にいたアムロがセイラと再会して、宇宙へ戻るという短編を描きました。それは、「逆襲のシャア」につづくお話だったので、どうしても、二人は別れなければなりません。書いたものの、最後まで自分の中でしっくりくるものがありませんでした。「逆シャア」がどうであれ、やっぱりアムロとセイラには幸せになってほしい、という思いと、あともう一つ、愛する妹アルテイシアが地球にいる(と、きっとわかっているはず)なのに、躊躇なく隕石落としを敢行してしまうシャアのことが、腑に落ちなかったということがありました。
 そこで、自分の中で納得のゆくお話を書きたい、という思いが募り、このシリーズに辿り着きました。

 今回タイトルに選んだ「遥かなる影」は、1970年代に活躍した兄妹ディオ、カーペンターズの代表作です。美しい歌声を聴かせてくれる妹のカレン・カーペンターは、当時としては珍しい女性ドラマーとしても天才的だったといわれています。しかし、兄を溺愛する一方で、妹のその天性の歌声やドラマーとしての才能を認めようとしなかった母との関係に苦しみ、摂食障害を患い、32歳でその生涯を閉じました。
 
 この歌には、金色の髪と青い瞳を持ち、誰もが「あなたのそばにいたい」と感じる、そんな憧れの人への思いが歌われています。そんなキャラクターが、ここにもいますよね。みんなが彼を、追いかけているのです。

 カレンには悲劇的な最期が待っていましたが、このお話に登場する「妹」には、幸せな時間を届けたいなと思っています。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。 ぜひ、スキやシェアで応援いただければ幸いです。 よろしければ、サポートをお願いします。 いただいたサポートは、noteでの活動のために使わせていただきます。 よろしくお願いいたします。