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水虫が足を掻く

 中谷美枝子と、近所の健康ランドに来ていた。
「やっぱ、広いお風呂はいいね」わたしは、超音波風呂に浸かりながら息をつく。
「下から出てくるこの泡が気持ちいいのよねー。ああ、癒やされるぅ」
 中谷もすっかりくつろいでいた。
 少しのぼせてきたので、
「ちょっと、あっちのプールに行ってくる」と言いおいて、湯船を上がる。
 ここの施設には、超音波風呂、電気風呂、薬湯、樽風呂のほかに、プールがあった。幅4メートルくらい、長さは10メートルはあるだろう。30度ほどに温めてあるので、体を冷やしすぎずちょうどよかった。

 誰もいないことをいいことに、得意の平泳ぎで行ったり来たりを繰り返す。
「夏の間は海にもプールにも行けなかったから、ほんと、サイコーっ!」
 ドボーンッと音がしたので振り返ると、中谷が飛び込んできたところだった。
「ひゃあ、冷たいっ!」中谷は楽しそうに叫ぶ。
「そんなに冷たくないでしょ?」わたしは言った。実際、ぬるま湯と言ってもいいくらいだ。

「いままで熱いところにいたから、すっごく冷たく感じたのよ。あ~でも、慣れてくると確かにそれほどじゃないかな」
「向こう側まで、競争しようか」わたしは思いついて提案した。
「いいよ。負けたほうがお風呂上がりのコーヒー牛乳をおごるのよ」
 2人並んでプールの壁に背をつき、いっせいのせで泳ぎ始める。
 わたしは平泳ぎ、中谷はクロールだった。ただでさえ泳ぎは得意じゃないうえ、相手がクロールでは話にならない。
 結局、半分も行かないうちに中谷が向こう側についてしまった。なんで、勝負をしようかと思ったかなあ……。
「はい、あたしの勝ち。あとでコーヒー牛乳おごってよね」
「はいはい、わかりましたよーだ」わたしは泳ぐのをやめて、歩いて中谷のほうへと歩いて行った。水の抵抗がまた気持ちいい。

 突然、中谷が「きゃっ」と声を出した。
「どうしたの?」
「足の裏に何か付いた」水面から片足を持ちあげてみせる。
 中谷の足の裏には、タガメそっくりな虫がビタッと貼り付いていた。
「気持ち悪ーい。さっさと剥がしちゃいないよ」わたしは1歩後ずさる。
 中谷は爪を立てて、虫を剥がそうとした。けれど、いっこうに剥がれる様子がない。
「ダメだ、全然取れない」半泣きになりながら、そう訴えた。よく見ると、虫にしてはやたらと薄っぺらく、まるで絵に描いたよう。
 と、中谷は笑い出した。ギョッとして、いっそう距離をとった。
「ど、どうしたの?」わたしは気味が悪くる。中谷がおかしくなってしまったのかと思ったのだ。
「そ、そ、それがさあ、ものすごくくすぐったいんだよ。ちょっと、もう一回、足の裏を見てくれる?」そう言って、右足をわたしに向かって突き出す。

 じっくり観察すると、虫の脚がもぞもぞと動いていた。
「虫が足の裏を掻いてるよ。見ているだけで、こっちまでくすぐったくなる」
「どうしたら取れるかなあ」と中谷。
「足をダンダンしてみたら」
 中谷はプールの中で、足をダンダンと踏みつけた。まるで、悔しくて地団駄を踏んでいるように見え、笑いがこみ上げてくる。
「ダメ、全然効果ないよ」涙を浮かべながらも、よほどくすぐったいと見え、口元は緩んでいた。

「とにかく、いったんお風呂を出て薬を塗ってみようよ。虫なんだし、消毒液でも塗れば自然に剥がれるんじゃない?」わたしは促す。
「そうね、コーヒー牛乳は今度にして、とにかく家へ帰りましょう」
 外に出て、着替えている間も、中谷は右足をブルブルと震わせながら、クスクス笑っていた。
 頭のネジが緩んだ、かわいそうな人にしか見えない。
 
 中谷の家に着くなり、サンダルを脱ぎ捨てて奥へ走って行った。慌ててあとに続くわたし。
「薬箱に、たしかオキシドールがあったはず」床の上で足をジタバタと踊らせながら、棚の上の薬箱を取り出す。「あった、あった。虫のやつ、覚悟しなさいよ!」
 オキシドールをたっぷりと吹き付けたにもかかわらず、タガメに似た虫はまるで動じる様子もなく足の裏を掻き続けた。
「全然だめじゃない。こっちの足がヒリヒリしみるばかりだわっ」中谷は愚痴をこぼす。
「志茂田に電話してみるね」困ったときの志茂田ともるだ。わたしはさっそく彼に電話をして、こっちに来てもらった。

「ふむふむ」中谷の足の裏をまじまじと見つめる志茂田。「中谷君、これは水虫ですね。ちょっとやそっとじゃどうにもなりません」
「えー、水虫だったの? どうりで痒くてくすぐったいはずだわ。どうしたら治る?」
「ドライヤーを持ってきてください」と志茂田。
 中谷が洗面所からドライヤーを持ってくると、
「水虫は熱に弱いのですよ。少々熱いですが、我慢してくださいね」そう断ると、中谷の足の裏に猛烈な熱風を吹き付けた。
「あちっ、あちちちっ!」思わず引っ込めそうになる足を、わたしがしっかりと押さえつけている。

 しばらくすると、水虫がもがき苦しみだした。
「あと一息ですよ、中谷君。もうちょっとだけ、辛抱してください」
 中谷は顔まで真っ赤にして耐え続ける。その甲斐あって、水虫はもだえ転げ、中谷の足の裏からぺろりと剥がれた。
「きっと、あのプールで感染したのね。まったく、誰よ。水虫なんか持ち込んだのは!」
「ともあれ、処置が早くて幸いでした。水虫はこじらせるとやっかいですからね。さ、息を吹き返しては大変ですから、ティッシュにくるんで捨ててしまいましょう」
 元之に言われ、わたしはボックス・ティッシュから1枚抜き取る。
「えーと、ねぇ、水虫はどこ?」
「どこって、いまそこに落ちたじゃない」中谷の指さすほうには何もなかった。
「まずいですね。誰か、うっかり踏んでませんか?」元之が目を細めて床を探す。
 不意に、左の足の裏がムズムズしてきた。やがてそれは、耐えがたい痒みへと変わり……。

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