#85 目的意識というウザイ自我

田中さん

こんばんは。今は15日の23:32です。きっと早起きの田中さんは寝てる時間ですね。ぼく的にはテレビの部屋での晩酌を終え、自室での音楽を聴きながらのアフター・アワーズです。

今からぼくが書くことは、フェイスブックに投稿しようと書きはじめてやめたものです。ぼくは思わせぶりな投稿が嫌いで、そんな感じがするものなので、田中さんと話してみたいと思います。話し相手がいるっていいよね。

ぼくは最近、「目的意識」というものがすごく苦手です。これに青臭さが加わるとさらにダメです。

この「目的意思」が苦手っていうのは多分かなり前からだと思います。その症状がこのところ悪化していると思うのです。

目的意識って、「したいこと」があるんですよ。理想を作り上げてしまっていて、ぼくの嫌いな、こうでなければならないというネバナラナイ・マインドがそこにあるんです。

目的意識という「したい支援」というものがあった場合、その対岸には「されたい支援」があり、支援と被支援という構図が厳然と生じるんですが、それを作り上げ、望んでいるのは目的意識の高い支援者のイキがりであって。

そういう人たちは、対岸から見えてるウザイ自分に気づいていないんじゃないかなって思うのと、この人は目的が明確じゃないと動けないんだろうな、曖昧な世界が不安なんだろうなと思うんです。

なんでこんなことを考えてるかっていうと、誰もが人それぞれの目的で集える「居場所」について考えてるからなんですけど、田中さんはどう?

いしい

目的は僕も大嫌い

石井さま

僕もずっと前から「目的」が窮屈で嫌いで、まあ仕事場所によっては仕方なく無難にこなしてきたんですが、ずっとそれがキツくて辛い感覚を抱いていました。

それが、ある頃から楽になったんですね。

それはどの頃からかというと、例によってスミマセン、「哲学」を真面目に学び始めた頃、年齢でいうと35才を越えた頃です。

小難しい議論は忘れてしまったのですが、まあ「目的」議論自体は2,000年以上も前から人間は考えてきて、それが「近代」の頃に正当化されたもの、つまりは人間が本来的に持っているものではないものだということを知ったんです。

その時、なーんだ、みんな必死になって「目的」を維持してるんだ、「目的」が辛い僕は悪くなかったんだと開き直れたんです。

言い換えると、目的を当たり前のように考えてる人たちは、ちょっと視野が狭い人だから、ちょっとくらいからかってもいいんではないかと(だからたとえば、ドーナツトークの「目的」をこよなく愛する共同代表である辻田は、いつも僕にからかわれてます。仕方ないですね)。

まあ哲学が100%ではないだろうけど、僕も最近はその哲学から距離をとろうとはしてるけど、いまの世の中の大半の人が当たり前と受け入れていることを「土台から問う」哲学はやっぱり僕にとっては大きな武器だなあ。微妙に歯がゆいですが。

そうした哲学に助けられながらも、石井さんの言う「曖昧な世界」やその時だけの出来事と毎日出会うごとに、自分だけの力で、その瞬間の力だけで乗り切っていく困難さを、僕は楽しんでいます。

が、ケースカンファレンス等で、みんなで必死に長期目標を考えてる時間も僕は好きだったりする。曖昧さと目的はたぶん次元は違うけど同居できるんですよ。★

田中

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