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【ネタバレあり】マーベルスタジオの脚本術を考える~売れる映画の仕掛けとしての現実の反映

映画『シャン・チー テン・リングスの伝説』を観た。

マーベルスタジオの映画ということで、話題の映画ではあったが、普段はミニシアター系でドキュメンタリーを観るのが常な自分としては、むしろ観ることが珍しい類いの映画で、それもだいたい見方が斜に構えていて、「どういう作為をもって作っているだろう」と考えながら観ている。

これはたぶん、ドキュメンタリーという監督(製作陣)の意向がストレートに出る映像作品を観ているからついた癖で、そうしないと、何が誇張されたことなのかがわからなくて、時として製作者にコロッと騙されてしまう。

マーベル映画のような大衆向け作品にそんなものあるのかよ、と思うかもしれないが、あるにはあって、例えば世間的な大好評でスーパーヒーロー映画としては初めてアカデミー賞で作品賞にノミネートされた『ブラック・パンサー』は、主要人物の背景に現実の黒人の立場を反映させることで味わい深い映画にした。

そういう「深み」を製作陣が意図していることは、そのあとに作られた『キャプテン・マーベル』にもみられて、主人公キャロル・ダンヴァースが作中でずっと感情を抑制することを強要されていて、これは作劇上では後半のカタルシスのためのものであるとともに、女性が男性社会で曝されるプレッシャーのステレオタイプでもある。

では、『シャン・チー』はどうだったか。

僕の中で気になった二点について書こうと思います。

※なお、今回は作中のことを書くのでネタバレ注意です。また、記憶を頼りに書いているので覚え間違いがあるかもしれません。もし見つけたら激せず、コソッと(そこちがいますよ…)って教えてくれるとありがたいです。

『シャン・チー』のなかの移民社会

1つ目は、展開上あまり描写は多くなかったアメリカの中華系移民社会について。

シム・リウ演じるショーンは作中ではホテルで駐車係をやっている労働者で、同僚のケイティとは10年来の友人であり、朝食を彼女の家で食べるほど仲がいい。この家にはケイティ以外に祖母と母と弟がいるのだが、祖母はずっと中国語をしゃべり、また清明節を大事にしていることから彼女が移民一世であることを示している。

母親は祖母の伝統的な姿勢に賛同するものの、ケイティの、「母さんもアメリカ人でしょ」と茶化す台詞があるので、彼女は祖母がアメリカで生んだ子どもであることがわかります(法律で、アメリカで出生した子どもにはアメリカ市民権が与えられるようになっている)。

ケイティのような移民3世になると、英語はネイティブだが、中国語は苦手、ということになるので、彼女が、ショーンに「なにか隠していることはわかっていた」と言っているのはこの違和感のせいと言えます。彼は作中で「高校で出会ったころの自分は英語が下手だった」と語っているのですが、これは彼が中国で生まれ育って14歳でアメリカに渡っているからで、実は境遇がまったく違う。

それでも違和感が少ないとショーン自身が考えていたのは、サンフランシスコのチャイナタウンがアメリカで古く、かつ90年代以降も拡張しているところだったからで、この辺りはアメリカ人からツッコミがないように作ってあるのかな、という話です。

下敷き、あるいはウェンウーの鏡としての戯曲『マクベス』

作中の登場人物の一人でかつて偽マンダリンだったトレヴァー・スラッタリーが毎週演じているとして言及される戯曲『マクベス』が2つ目の興味深い点です。

これは3人の魔女の予言に唆されたマクベスが妻と共謀して王権の簒奪を図り、一度は王になったものの疑心暗鬼から孤立し、最後には無惨に敗死される顛末を描いたシェイクスピアの古典です。

件の人物は処刑の寸前でその一場面を演じてみせたことで本作のヴィランであるウェンウーから命を安堵され、彼の前で毎週演じることになったんですが、このエピソードによってウェンウーの人物像に深みを持たせている。

マクベスは劇中で不安から幻聴や幻覚をみてしまっていて、それが作中のウェンウーの姿と被る。だからこの台詞は、「今回の作品はマクベスから発想を得ているんですよ」というネタバラシとも取れるんですが、一方で疑問になるのは、これを演じたことで「彼に大ウケした」ということはどういうことなのか。そしてこれを毎週見せているとはどういうことか。

作中では都合三度、ウェンウーが亡くした妻の声を聞くシーンがあります。一度目は実子たちから拒絶された後、二度目は決戦の前、そして3度目はショーンことシャン・チーとの親子喧嘩を終えた時で、いずれもウェンウーが思い止まろうとした時に聞こえます。この声の主は実は妻を騙る魔物の声で、彼は魔のものに唆されて妻の故郷を焼き払おうとしていたことがわかるんです。

つまり、観客からすると、「魔物に唆されて悪逆を働くウェンウー」がマクベスにぴったりだと考えるわけですが、実はウェンウー自身が自分はマクベスだと認識していた、というのは既に明かされていたわけで、そうでなければ「大ウケ」だったりしないんですよね。彼は自分が何者かに誘惑されていることを知りながら、なおそれに抗えない弱さを持っていたことを想像させるわけです。

それをトニー・レオンが演技で補完していて、この映画の中でほとんどウェンウーの顔は憂いを帯びたものになっていて、それは冒頭の幸せな妻との出会いや逢瀬、家族との生活で見せる華やかな笑顔と全く違っていて素晴らしい落差があるわけです。

マーベル映画のキャラ深掘りにある現実社会の反映

先述したように、マーベル映画には深みを見せる方法があり、その一つは現実社会の要素をキャラクターの背景に入れる点で、これを小ネタとでもいおうか、気付く人が気づくように配します。

思うに、これはマーベルなりの映画を売るための戦略のひとつで、自分達の映画をコミックファンのみならず、映画好きたちを唸らせる映画にしようという気概なのではないかと思います。

こーいうことを分析するのは、自分の小説執筆に活かしたいからなんですけどね。

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