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わたぼうしのとぶころに 五章

五章 他人の目線の奥(前編)

 芸大を卒業してしばらくブラブラしていたある日、ゼミでお世話になった内原先生から連絡が入った。知り合いの写真家が助手を募集しているから行ってみないかということだった。その写真家は世界的にも有名で世界の文化遺産を撮影してまわっていて特に中東など得意なところはアフガニスタンやトルコなどだった。 シルクロードの仕事が有名で、その最終地点の日本を晩年のライフワークにしたいと帰国しているということだった。ということから助手が必要となりオレにお声がかかったということだ。とりあえず話は聞きに行ってみますと言って、ちょうど出雲の取材をしているということだったので、そこへと出向いた。すると、会って話をするなり「今日はどこに寝るんだ?」という話になった。とりあえず話を聞くだけのつもりで出向いたのでなんの準備もしていなかったオレは「今日からですか?大阪にアパートも借りたままなので。」と伝えると。「そのつもりで来たんじゃないのか?そんなの休みの日に、ちょっと行って片付けてこい。」と一言だった。
そしてその日から助手としての生活が始まった。出雲の取材を先生と一緒に撮影することもあったり、あそこの神社の祭りを取材してこいといわれたら取材に行き、夜はずっとそのネガ整理をしていた。同居をする住み込みの助手だったんで、朝は先生が起きてくると朝刊と淹れたてのコーヒーと朝食の準備をしていた。そして食事すませて歯磨きが終わると「そろそろいくぞ!」と声がかかる。「はいっ!」と言って前日に撮影の機材準備をしていたものを持っていくような絵に描いたようなアシスタントの仕事だった。
 有名な写真家ではあったのだけれど私生活はぐちゃぐちゃで、そういう人間性が耐えきれず、先生とは喧嘩ばかりしてしまって、半年で辞めることになった。
 帰ってきたことを内原先生に報告すると「それは仕方ないね」と言われ、大手新聞社で少しサラリーマンの真似事をしてみないかと話を持ちかけてくれた。誰もが知っている大手新聞社の本社での仕事の話だった。無職のオレにいきなり大手新聞社を紹介されていかないわけがなく入社となった。
その新聞社での仕事は写真データベース委員会の調査部配属で当時、写真がデジタル保存出来るということでCD-ROMへ保存していくものだった。時代的にはアップルからマッキントッシュが普及され始めたころだ。
 だから新聞社勤務だったのだが記者ではなく調査部という、新聞記事を整理保存していく部所で、資料がいる時にパッと出すようなことをするのがオレの仕事だった。
そこで写真のデジタル保存のプロジェクトに関わっていった。当時、スキャナーなどはなかったので、すべて紙焼きのプリントやネガフィルムなどを一旦複写してから、それを大きな現像書に持ち込んでデジタルスキャンしてもらい CD-ROMへ保存すというような流れだった。
 その作業をその新聞社の創刊からその当時に至るまでの新聞掲載写真全部を行った。掲載写真ピックアップしただけでも600万枚あった。オレは下っぱだったから、編集委員の人たちが写真を選び、それに関する記事を全部要約しタイプ打ちしたモノがオレのところに来る。そしてその写真を複写してデジタルに発注するという仕事。編集委員の人から「このプリントのネガ探してきてくれる。」って言われると新聞社の地下にある倉庫から探し出して来るような感じだった。だから、その記事と映像や画像が、一致はしないこともあるけれど、とにかく見た。明治、大正、昭和。226事件などの新聞記事や写真を生で見ていた。支那事変や満州事変に第二次大戦の報道写真。社会面もあれば経済面もあり、文化面もあればスポーツ面もある。第1回高校野球大会開催の写真やグリコ森永事件。よど号ハイジャックや三億円事件を全部見た。まるでそれはリアルタイムで新聞を読んでいるかのような感じで日本の昭和史をとにかく映像としてみた。そして一番最後の仕事は阪神淡路大震災だった。
 出社前にガーンと大きく揺れ、慌てて会社に行ったら目の前のビルのガラスがみんな割れて地面に落ちていたり社屋の壁には至るところにヒビが入っていた。2階・3階と上がっていくとその間に社会部や写真部も大騒ぎになっていて「神戸市局と連絡が取られへん!誰が走れる?」とか言っていた。オレの部所は保存の仕事だったから、結局手薄になったところへ手伝いに行ったり、写真部や現像の手伝いなどをしていた。毎日送られてくる震災の写真。そのデータベース委員会の編集委員も仕事をシフトして、まずは震災の記事を優先しようということになった。とにかく来たフィルムを現像してプリントして選んで、残すモノと残さないモノ、新聞に掲載するモノ、グラフ誌に掲載するモノ。ムックにするモノ。毎日送られてくる震災の写真を見ていた。だからオレはテレビのニュースなんかよりも、まさに現場で撮られた写真から震災を見た、ヘリから撮られた空撮の倒壊した阪神高速、倒れた〇〇ビル、瓦礫の下敷きになっている人、掲載出来たモノ出来なかったモノ。
 そして写真データベース委員会も大震災の一連の仕事が終わった時点で一旦終了することになった。新聞社創刊以来の記事を、ただ見たという経験はその部署でも、おそらく日本全国の新聞社でもオレだけだと思う。それはこういった機会がなければしないことだからだ。
 そのあと他の部署に移って新聞社に残るという手もあったのだが、ちょうどその頃にまた内原先生から連絡が入った。それは写真の専門学校で教員しないかという話で、自分の中ではつながった。自分が見たこの情報と経験を活かすことも、写真をやるということで挫折してしまった教員になるという夢も叶う。そしてオレは写真の専門学校の教員になった。


六章へつづく


※このお話は少しだけフィクションです!お聞きしたお話に基づいての物語ですが、客観性はないかもなので事実かどうかはわかりません。登場人物は仮名です。

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