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一周回ってからの同じ景色は ぜんぜんちがうかった 五章

五章 僕なりの一歩目

 勉強していなかったとはいえ高校は卒業し、建前上お父ちゃんの前では共通一次を受けて「国公立目指してます!」「でもダメでした!」みたいな感じで予備校に通うことになった。意気込みとしては予備校で一年間頑張って勉強して大学へ進学と思っていたのだけど、高校のときに出来なかった恋愛というのを予備校のときにしてしまった。恋愛と言っても片思いになっただけなのだけれども、勉強どころではなくなってしまっていた。
 そんなことをしながら予備校に通い数ヶ月が立ちどこの大学を受験しますかと三者面談をすることになった。このときに限ってお父ちゃんがくることになり、「大変だ!勉強してないし。だけどお父ちゃんはお金出してるし勉強してると思ってるし。」と僕一人が心のなかでワチャワチャなっている中、「〇〇くんは今のこの成績では国公立だったら夜間か、地方の例えば美術大学とかそういった、すこし勉学とは違うところにしか行けないかな!それでも昼間の大学は無理です!」キリっと言われてしまって。「キリっ」はもちろん言ってないのだけれども、お父ちゃんの目の前で言い切られてしまった。
 結局そのときに受験先は決まらなかったのだけれど、「僕は勉強してなくて、勉強ができへんねや!」ということがお父ちゃんの中でハッキリしてしまった。そのあと予備校から家へ帰る途中に軽トラで二人っきりでいろいろとお父ちゃんに言われて、今まで反抗なんてしたことなかったんだけれど言葉と態度での反抗した。大阪の堺あたりの信号で停まっているところでピークになって、「そんなお父ちゃんの言う通りにならへんねん!!!」とかいって、ダッシュボードを「バン!!」って叩いて、「オレ一人で帰る!もうなんにも言わんとってくれ!」と怒鳴りつけて、軽トラのドアを「バン!!」としめて、一人堺から泉南まで歩いて帰った。お父ちゃんもどうしていいのかわからなかったのか、お父ちゃんはお父ちゃんで一人軽トラで帰った。
 そんな中、一人泣きながら歩いて帰る道中「どんな顔してかえったらええんやろ?」「お金出してもうて、予備校いかしてもうてんのに!」「勉強もしてないのに偉そうなこと言ってもうて!」「僕はなにをやってるんやろか?なさけないわ!」と色々と考えていた。
 
 そんな事は言っても時間は進み予備校も待ってくれないわけで、とりあえず共通一次は受けてみた。そんな状況で受験したのだからもちろん結果はサンザンだった。とはいえ、大学にはどこかに行かないとという状況の中、数学、生物、英語は勉強すればできたのでこの3教科で行くことができる学部を探すことにした。そうすると農学部ならその3教科での受験ができると分り、大阪では数少ない農学部のある大学に焦点を絞って2ヶ月くらい一心不乱に勉強した。
 その大学の過去問題集を買ってきて全部頭に入れて受験に挑んだ。そして「やったらできるもんやね!」ということで無事に合格していた。お父ちゃんにも「こないだは、あんなんいうてごめん!」どんな大学かを説明して「今まで、ありがとう」と謝りお礼を言った。

 大学の学費は出してもらっているけど、そのほかに必要な自分の日常生活でご飯を食べたり何かを買ったりするようなお金は自分で稼ごうと思いアルバイトを始めることにした。もちろん社会勉強という想いもあった。何箇所かでアルバイトをやったのだけれど、その中の一箇所が今でも昔の人は老舗として記憶にあるくらい有名だったステーキレストランだった。ほぼ大学在学中の4年間、そのお店にボーイとしてアルバイトに行っていた。
 そこで出会った山川くんは僕の一学年先輩で、ものすごくお笑いと音楽に長けていて、仕事も凄く出来て、大学は関西では有名なところへ通っていた。かといって、えらそうにするような人ではなかった。今現在53歳の僕の音楽やお笑いの趣向は全て山川くんの影響を受けたといっても過言でないくらいに影響を受けた。それでお笑いにドハマリしてしまった僕は、大学へは行くのだけれども午前中には抜け出して、出来たばかりのころの吉本のNGKに通い始めた。お笑い自体は家族でも好きだったのだけれども、そのころになるとビデオが普及してレンタルビデオなども出来はじめたりして、色々と古いものを見れたりするようになり、資料が今までとは違いたくさん出てきてのでお笑いIQが高くなっていった。
 一人でNGKに行って実際に舞台のお笑いを見て、「わー!おもろ〜」ってゲラゲラ笑って、その足でアルバイトに行き、その帰りに山川くんと反省会と称して喫茶店でお笑いの話をした。「今日のネタはこんなんやった!」「こんなんどう思う?」「これおもろいやろ!」など話は尽きず毎回のように10時頃まで話をしていた。
 その頃の大阪南は華やかで喫茶店で話をしている時に、芸人さんとも沢山出くわした。そのなかには今では超有名になった芸人さんもいて、まだまだ駆け出しの頃だったのだけれど、お笑い好きだった僕はその状況にテンションが上がったりしていた。

 高校の同級生の花田くんとも友達付き合いは続いていて、高校時代のように会って遊んでいた。ちょうど運転免許もとり車も乗り出した頃で一緒にどこかへ出かけたりしていたので、遊ぶことが忙しかった。
 バイト先のステーキレストランでは接客や言葉遣い、身だしなみ、接客中の心構えなど社会人としての基礎を教わった。それまではなにも知らなかったので髭面だったりしていた。ここでも僕は可愛がってもらうことが出来ていて、みんなお互いに親しみやすい雰囲気が漂っていた。割合としては学生ばかりではなかったけれど年齢層は若かった。その他に主婦の人だったり、年配のおばさんもいたんだけれど、年令に関係なくみんなでケラケラ笑って過ごしていた。ちょうどバブルの絶頂期だったからってこともあるかもしれない。そんな時世ということもあってかアルバイトでも十分ご飯を食べていけるくらいは稼ぐことができていた。アルバイト三昧の大学生活も4年目を迎え勉強はさほどしていなかったのだけれど単位は取ることが出来ていて問題なく卒業はできそうだった。ステーキレストランでのアルバイトで4年間つちかったものもあったので、卒業後もそのままここに働かせてもらおうかとも考えた。だけど漠然と子供の頃から何がしたいということもなかったけれども、どこか会社へ入って普通に給料をもらい、いずれは家族を持って養えるようにというようなことを考えながら、自分の興味のある会社に就職できればなと就活をすることにした。世間的に良いとされている銀行だったりは全く興味はなかったのだけれど、お笑いとかは無理だと感じたりしていて、子供の頃から絵を描くことが好きだった事もあったので印刷会社はどうかなと思い始めていた。 ゴッホがどうだったりのような美術的な知識はなかったけれど絵のことには関心があったりで、絵を見たり色がどのような感じだとか携わったりすることに苦を感じることはなかった。特別興味が会ったわけではないのだけれど、苦にはならないなって思っていた。働きはじめて実務も積めば〇〇コディネーターのような資格も取れるのかもしれないと考えて印刷会社に応募することにした。その当時は色んな企業が募集をかけていて、就職する側は引く手あまたなな状況だったので、常識的な試験だとか面接は必要だけれど今現在と比べると就職しやすかった。
 
 それで勤めることになったのは中小企業ではあったのだけれど大手メーカーの仕事も請け負っている印刷会社となった。将来的には商品開発だとかに関われたらいいなとか「自分の絵やデザインが人目に触れたりなんていいな」なんて思った。当初は大阪での採用だったのだけれども、東京での採用に欠員が出てしまい絶対に誰かが行かないといけない状況の中、僕にその白羽の矢が立ち、東京に行くことになった。
 東京へと旅立つ当日、新大阪駅につくと花田くんと剣道部のみんなが見送りに来てくれていた。会社の常務が「頑張れよ!」と声をかけてくれたのを最後に新幹線の扉がしまった。このまま大阪を離れる気でいたから、寂しいやら悲しいやらでボロボロと涙をながしながら大阪を発った。


六章へつづく


一周回ってからの同じ景色は ぜんぜんちがうかった

※このお話は少しだけフィクションです!お聞きしたお話に基づいての物語ですが、客観性はないかもなので事実かどうかはわかりません。登場人物は仮名です。

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