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セッションってすごい!

こんにちは。今回紹介する映画は2014年公開のセッション(監督:デイミアン・チャゼル、主演:マイルズ・テラー)です。もう6年も前なんですね。スパイダーマンTMのジェイムソン役でおなじみのJ.K.シモンズがアカデミー助演男優賞を受賞しましたね。映画を観ると、そりゃアカデミーだわって思わされる演技でした。すごかった。

たしかに、シモンズが演じたフレッチャーは迫力があってこの作品を素晴らしいものにしているのは間違いないです。さらに、この映画の魅力を高めているのは、音楽映画らしくそのサウンドトラックの素敵さにもあるのでしょう。ジャズはよく分かりませんが、それでもなんかいい曲!と思わされるものばかりです。しかし、セッションという映画はシモンズの演技やサントラだけが魅力ではないですよ。少し長くなりますがお付き合いください。

①セッションの魅力って?

そこで、セッションを魅力的な作品にしている(と僕が勝手に思っている)衣装の描写に着目します。まず、一番最初のシーン。マイルズ・テラー演じる主人公の音楽院生、ニーマンがスポットライトに照らされながらドラムを叩いているシーンです。このとき、彼は白いTシャツを着ていました。そこへ、暗闇の中からぬっと黒いTシャツを着た名教師フレッチャーが現れます。彼はニーマンにドラムを叩かせ、ニーマンの力量を測りました。

次に、シーンは変わってラストシーンです。学校を辞めたニーマンは、同じく学校を去っていたフレッチャーが率いるバンドに参加し、そのバンドがコンサートに出演するシーンでした。このとき、ニーマンは黒シャツを着ています。フレッチャーは相変わらず黒Tシャツでした。(もちろん上着は着ていますが。)

最初とラストの5分ほどはどちらのシーンもライトの中心でニーマンがドラムを叩き、それを指導するかのようにフレッチャーが立っています。まるでその場にはこの2人しかいないかのように。さて、この二つのシーンはよく似ていますが、何が変化したのでしょう。ニーマンの服装?ニーマンとフレッチャーを取り巻く環境?もちろん2つとも正解でしょう。しかし、ここにおいて最も変化したものは主人公のアンドリュー・ニーマン自身です。

察しのいい人は、僕が何を言おうとしているのかにもう気がついてしまったかもしれませんね。

ここから先は少しネタバレもあるので、楽しみにしていたい人はここで読むのをやめてください。観ていない人でも、ネタバレなんか気にせんわって人は読んでいただけたらありがたいです。

②ニーマン自身の変化とは?

さて、本作を観たことがある人なら分かると思いますが、フレッチャーは普通の教師ではありませんでした。彼は、自身のバンドが完璧な演奏をするためには手段を全く選ばない男です。フルメタルジャケットに出てくるハートマン軍曹ばりの罵詈雑言を学生にあびせ、暴力も厭わない人です。彼から「よくやった」と言われることなどまずあり得ません。これは「よくやった」という言葉が人の成長を阻害する、低レベルなものしか生み出せない人間になってしまうというフレッチャーの考えがあるからです。このような様子から、彼は「音楽の狂気」とでも呼べるようなものに取り憑かれていると言えるでしょう。

他方で、ニーマンはどうでしょう。彼は純粋に「偉大なドラマー」になることだけを夢見てシェイファー音楽院に通っていました。おそらく自分の夢を純粋に追い続けていたことと、彼が若かったことにより音楽の世界におけるダークな部分は見えなかったのでしょう。この純粋さを表すのが、最初のシーンで着ていた白Tシャツということになるのではないでしょうか。

ググったところ、白とは純粋さや無垢であることを表す色として用いられるそうです。その一方で、フレッチャーが着ているTシャツの色である黒とは、権力や攻撃といった事を表す一方で洗練を表すこともあるそうです。「音楽の狂気」に取り憑かれているフレッチャーは、たしかに暴力的で過激なヤバいやつという側面はありますが、アメリカ最高の音楽院において最高の指導者といわれるように、音楽に関してはとても洗練された人であるとも言えます。彼を表すのに、黒という色はドンピシャであると言えるでしょう。

以上のように、2人はまさに対極の存在であったわけです。では、ラストでニーマンの衣装が黒色であったということには、どのような意味があるのでしょうか。

③要するにどういうこと?

以上のことから最初のシーンで白Tシャツを着ていた純粋なニーマンは、この映画のラストでは、フレッチャーと同様に「音楽の狂気」に取り憑かれてしまったと言えるのではないでしょうか。事実、彼は事故に遭って血まみれの状態でもコンサートへの出演を望み、自分から好意を抱いて付き合うことになった、映画館でアルバイトをするとっても可愛い彼女(演:メリッサ・ベノイスト)を「偉大なドラマー」になるという自分の夢の実現には邪魔だといって別れ、少しずつ「音楽の狂気」に侵食されていき、最後にはフレッチャーのコンサートなど知ったことか!ここは俺のステージだ!といった態度で突然ドラムを叩き始めます。そして圧巻のパフォーマンスを見せ、おそらくフレッチャーから「よくやった」の言葉を引き出したのです。

また、衣装の話からはズレますが、「音楽の狂気」に取り憑かれていた人物は、この作品においてニーマンとフレッチャーだけではありません。劇中で、ニーマンとフレッチャーの会話の内容として出てくる偉大なジャズプレイヤー、チャーリー・パーカーやジョー・ジョーンズもそのエピソードから「狂気」に取り憑かれた人物であると言えるのではないでしょうか。すなわち、音楽の世界において偉大な人物、高名な人物となるためにはこの「狂気」こそが重要なのだと主張しているように考えられます。エミネムのLose Yourselfではありませんが、"音楽に我を忘れる"ことがこの世界での成功の秘訣なのかもしれません。

これらのことから、ニーマンが目指していた「偉大なドラマー」としての第一歩を踏み出して、作品はエンドロールを迎えたと考えられます。良かったね、ニーマン。

最後に

最後まで稚拙な文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。前回のインセプションよりも長くなってしまいました。全く纏められないですね、申し訳ありません。

ところで、普段何気なく観ていた映画の衣装にも、このような心情描写的な意味をもたせることが可能なのではないでしょうか。そう考えると、映画ってとても奥が深くて素敵なものに思えますよね。そして、このような素敵な作品を作ることができるデイミアン・チャゼルが、この後ラ・ラ・ランドでアカデミー監督賞を受賞した、というのは当然の結果のように考えられます。

追記

セッションのラスト10分間を観賞し直して気がついたことをメモ的に記しておきます。

映画ラストのコンサートのシーンです。バンドメンバーの服装は白シャツに黒ジャケットという所謂フォーマルな格好でした。それに対してニーマンは上述の通り黒シャツに黒ジャケットでしたね。

フレッチャーはラストのCaravanの演奏を作品中で一番穏やかな表情で聴いていました。フレッチャーはこのバンドメンバー達の実力を認めていたのでしょうか。

おそらくそんなことはないでしょう。

上述の通り、本作において服装というのは人物の心情描写において大きな役割を果たしていると考えられます。ラストのバンドメンバー達の服装を考えると、ニーマンとフレッチャーは明らかに異質であると考えられます。

ジャズバンドについては詳しくは知りませんが、普通はコンサートであれば全員の服装は統一されているものではないでしょうか。にも関わらずニーマンは黒シャツ、フレッチャーに至っては黒のTシャツというフォーマルさのかけらもないような格好をしています。

このことから、フレッチャーとしては穏やかな表情の下には腑が煮えくり返ってメンバーをボコボコに殴り倒してやりたいぐらいの気持ちが隠れていることが推測されます。

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