あかねが淵から(第二部十一章中段)

 かいは山羊たちの鳴き声を聞いた。これほど声を揃えて鳴く声をあげるのを初めて聞いたのだ。
(母さんが、大切にしていた山羊を放して、あかねが淵への密林に入って行ったんだ)
足元にうずくまっていた黒山羊のあらしが、気難し気な目でかいを見張っている。(そうだ。おれの様子を油断なく見張っているもう一つの金色の目。あれは、今もおれのことを見張っているのか?)。

「さあ、かい。お前この袋に入りなよ。」ひろが大きな袋をひきずってくると、かいの前に広げた。白い粉がぱっと舞い上がる。

「おれが何でこの袋に入るのさ?」

「お前が見張られておるからさ。ここから、ぶじに出ていくのには、二つに一つ、袋に入って、あらしのせなかに乗せられていくか、父さんの配達に付き合う私のようになるか?」

「おれがお前の恰好をするのか?おれはお前よりだいぶ背があるぞ。」

「着るものは大丈夫だよ。この間、庄屋のばあちゃんがとよの子供のときの着物を届けてくれたからな。いっぱいあるぞ。」

ひろは部屋の隅に無造作に積まれた着物を指さした。

「とよって、一体母さんはどこへ行ったんだ。大切な山羊を放したりして、まさかおれを、、」

「そうだよ、楠の木のおばあとお前の姿がみつからないと聞いた後で、とよはお前は結びにあったように「姉妹の塔」へ連れていかれたと思ったようだよ。誰にも言わずに山羊を放して、家を出て行ったんだよ。」(「姉妹の塔」へか?あの竜もその場所へおれを連れてゆくと別の竜に約束していたな。次の満月の夜までにと、、)

「ひろ、今、月はどんなかたちをしている?」「弓を張り始めた処よ。さあ、早く決めておくれ。袋か?着替えか?」

その時になって、かいは自分の身体のあちこちが、ひどく痛むのを感じた。(脇腹や背中、とくに背中のあたりがひどく痛い。これでは、袋に入って、あらしに運ばれるのは無理だ。)

水車番はとよの着物を着たかいの姿を目を細めてながめた。「なかなかよいおなごぶりですじゃ」。

「父さん。余計なことを言って、かいの機嫌をかえさすな。」あらしの背に積まれた袋の中から、ひろが小声で文句を言った。

「もっとも、ごもっとも。じゃが、親子というのはやはり似とるもんじゃ。ほんとにとよさん、そっくりじゃ。」

水車小屋の外へ出ると、騒いでいた山羊の声が水を打ったようにやんだ。そして、黒山羊のあらしの傍に頭を揃えるようにして近づこうとした。その時になって、かいは水車の回る音が聞こえないの気がついた。(水車を何故止めたんじゃ。おれをここから、逃がすためだけなら、わざわざ水車を止めることもなかろうに。二人して、おれと一緒に森へ行くつもりじゃろか?)

「シッシ。あっちへ行け。ついてくるな」かいはそばに寄ってきた山羊の頭を叩いた。山羊たちはますます、固い頭を並べてじりじりと行く手をふさごうとする。黒山羊のあらしの目がキラリと光った。そして低く鳴いた。一瞬に泣き止んだ山羊の声に遅れて、あの聞き慣れた竜の声がした。かいの背すじがぞっと凍った。あの声は側を流れる川の中から聞こえてくる。

「かいさん、そっちじゃないですわい。」水車番の慌てて止める声も聞かずにかいは川筋をはなれた。あかねが淵の奧へと続くと言われる曲がりくねったガジュマルや空をつくようにそびえるたぶの樹の並ぶなかへとやみくもに進んでいった。黒山羊のあらしはかいの振るむちから、一歩先を狂ったように密林のなかへと踏み込んでいった。

「かい、一体何が起きたんじゃ。身体がどうにかなるところじゃった。もう、金輪際、袋には入いらんぞ。」

「わるかったな。なんかおれにもわからんが、こっちの道がいいと思った、、」。袋から出されたひろは髪も着物も雪ん子みたいに真っ白になっていた。背中の荷物を降ろされたあらしは、すぐにあたりの草の匂いを嗅ぎながら、食べられそうな草をもう探している。すっかり暗くなった密林の空に、弓を構えて、空の星を狙う弓張り月の姿が見えた。

躓いたり、ころんだりしながら、ようやく、水車番が近づいてきた。

「かいさん、おどろきましたじゃ。これは昔の言い伝えにある、旧道ですじゃ。もうだれも知ることのないと言われている。そして、この道が再び開かれることがあってはならぬと言われている道ですじゃ。」

水車番は汗を拭くのも忘れて、不気味なものを見るように、かいの顔を見つめた。

(第十一章中段終わる)


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