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『さよなら すべてのハルマゲドン06』 〜エホバの母とヘビの正体〜


 これまでの、このシリーズ連載全体を読むことで、懸命なる読者諸君の目は、これまでより幾分か「客観的、冷静」になってきたかとは思うが、大事なことなので、何度もおさらいをしておきたい。

 聖書というのは、古代中東において、それぞれの民族や地方でバラバラに発生していた神話群を持ち寄ったものである。

 そして、その神話を、ヘブライ人の創世神話、あるいは「神に選ばれた選民神話」として、

”いいとこどり”や”恣意的なチョイス”

を重ねていったのが、現在残っている聖書であると考えて差し支えない。

 そのため、中東全体で神話を調べてゆくと、「聖書の元ネタ」になったものや「聖書と共通の話」がわんさか出てくるが、そこから「聖書執筆者たちや編集者たちにとって都合がよいもの」を取捨選択していったのが聖書の成り立ちだったわけである。

 もちろん、その恣意的なチョイスに込められた意図はものすごく明確であり、かなり強い意思をもってそうしている。

 それはヘブライ人たちが

「自分たちの神(エホバ)に、どこまでも全き専心を捧げるので、その代わりに自分たちにカナンの地を与えください、安住の地をください!」

と願っていたことそのものなのだ。

 ヘブライ人にとって、すこしでも悪いことが起きれば、あるいは異民族との戦いに敗れると「エホバへの信心が足りなかったためではないか?」という不安に苛まされるものとなった。

 逆に、それらがうまくいけば「やっぱりエホバだわ!」という確信になったのである。

(この構造は、まさに現代のエホバの証人の信仰が持っている基本的な考え方そのものである)

 安住の地は「楽園」である。そして、抵抗勢力や異民族を排除するには「ハルマゲドン」的な一掃が必要になる。

 終末思想と楽園思想は、こうして砂漠の民にとっての渇望すべきオアシスとなっていったわけである。


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 さあ、ではもう少し寄り道をして、聖書の暗号・謎を解くための話を続けよう。聖書にはいろいろなキーワードや、象徴的概念が登場するが、それをまるで「ダヴィンチ・コード」のラングドン教授のように、解き明かしてみよう。

 今回は、「ヘビ」の正体についてである。



 創世神話の読み解き方は、やはり人間が叙述したものである以上、当然「母」と「出産」のイメージがあったという。

■ 淵・暗闇・子宮・閉じられた開口部があり、そこに母なる存在がいる。
■ その閉じられた開口部から、世界が創造される。
■ 神でさえ、創造された存在なので、母にもともとは従属している。
■ 神は、もともと母神の夫という姿で現れた。
■ その姿は、本体から切り離されたヘビ、すなわち男根であった。


 そして、この神は、のちに母なる存在に反抗をするようになり「世界を創造したのは自分だ」と主張しはじめたという。

"神は創造神だと認められると、とたんに、鼻高々となり、生みの親の母神を無視し始め、宇宙を造ったのは自分1人であると主張し始めた。女神は立腹して、神を罰し、腫で神の頭を傷つけて冥界へ追いやった。シュメールの創世神話によると、女神の息子でありである神が傲慢な徴候を見せ始めると、女神は追放の呪文を唱えて、「今後、汝は天界にも地界にも住めなくなる」、と言った” 

 
 この引用文からも十分イメージできるように、中東神話にはもともと「失楽園」時のアダムとエバをそそのかした「ヘビ」の様相がすでにベースとして存在することがわかると思う。

 あの話は人間の話に見せかけているが、実は言ってみれば「エホバが、母神に背いて追い出された時のエピソード」だったのである!

 おまえのことだったのかよ!といっせいにツッコミを入れていいぞ(笑)


 ところが、話はそれだけでは終わらない。どうもこのヘビという神、聖書神話の直前では「女神のオナニーグッズ」みたいな扱いになっているが、もっともっと遡れば、もう少しランクが上だったようなのだ。


 ”実際にヤハウェ崇拝が起こるずっと以前に、パレスティナではヘビが崇拝されていた。初期のヘブライ人は、当時の人々がみな崇敬していたヘビ神を受け入れた。ユダヤの祭司族であるレピ族は。「大いなるヘビの息子たち」すなわちレヴィヤタン(うごめく者)の息子たちであった”


 つまり、ヘビ崇拝は、エホバ崇拝より以前の形であり、エホバとしては先輩であるヘビ神に勝つ必要があったらしい。なので、


■ ヘビ神よりも上位・優位に立たねばならなかった。
■ 母なる存在としての母神の存在を消し去らねばならなかった。
■ 自分が創造主であると、舞台に躍り出る必要があった。


ということなのだ。こうして、ヘビは聖書編集者たちの解釈では「エホバに敵対するもの」すなわち「サタン」の象徴へと変化することになった。

 実際には逆だったのだ。エホバのほうが、ヘビをライバル視していて、自分がコンプレックスの固まりであったので、敵認定せねばならなかったのである。

 そして聖書執筆者たちは、ヘビを悪者として描き出したのである。


 さて、聖書において人間がエデンの園を追い出されたのは、「ヘビにそそのかされたエバとアダムが、善悪の知識の木の実を取って食べた」からであった。

 なぜそれがいけなかったのか。それも古代中東の神話では、より明確に述べられているという。


 ”エデン神話に対するこの見方はシュメール-バビロニア人の資料にまでさかのぼることができる。
 人聞は大地母神によって泥から作られて、神々のために「これ(エデンの園)を耕させ、これを守らせ」るようにエデンに置かれた(『創世記』 2: 15)、なぜならば神々はたいそう怠惰で農耕をしようとせず、植え、穫り入れ、自分たちに捧げ物をする奴隷が欲しかったからである。神々は奴隷たちが自分たちより偉くなって働こうとしなくなるのを恐れて、神々の持つ不死の秘密を決して彼らに知らせてはならないことを申し合わせた。したがってギルガメシュ叙事詩が述べるように、神々は人類に死を与え、「生は自分たちの手に確保しておいた」のであった”


 つまり、人間は神によって作られた「自動的に捧げものを持ってくる、食べさせてくれるための奴隷」だったらしい。だから自分たちのコントロール下に置いておく必要があった。

 しかし、知恵を身につけ、あまつさえ「生命の秘密」にまで手を出されては困るので、「神々(われわれ)」のようになろうとしている」と因縁をつけて追い出したのである。

 これが僕たち私たちが信じてきた「原罪」の正体であり、その真実は「古代中東の神々の陰謀による追放」であったわけだ。

 このことまで知ってしまったら、もう、人である僕たち私たちは、何ひとつ恐れるものはなくなったのである!


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 とまあ、ここまで読んだ読者の方々は、もうすでにすっかり聖書の呪縛から解き放たれ、「原罪」をもきちんとクリアできたに違いない。

 原罪がなければ、ハルマゲドンも不要だ。

 そもそも、聖書の創世神話のからくりがわかれば、「信仰とやらの土台」が一気に崩れ去るのだから!


 というわけで、今回のおまけとして、「女系社会から男系社会へ」の移行についても触れておきたい。

 聖書はガチガチの男尊女卑思考だが、中東においても本来は「女系・母系」の家族体制が強かった。

 母なる母神、が存在することからもわかるように、出産・すなわち創造を司る「母」のほうが強かったのだ。

 古代中東においても、日本の平安時代の「妻問婚」のように「男が女性の家に出かけてゆく」形での婚姻だったようだ。つまり、女性側からみれば「一時的にやってくるち○こ」=ヘビ、としての男性の地位しかなく、アラビア人の妻は「3夜連続で、その男を迎え入れなければサヨナラ(離婚)を意味する」という風習があったという。


 ところが、聖書執筆者や編集者の考え方は違った。実際に中東社会は、しだいに男系へと変化してゆくが、それは当然「戦争するため」という理由と関連している。

 戦争時に力を発揮するのは男性であるから、戦闘が起きれば起きるほど、男性優位に社会が変化してゆくのである。

 おそらく、「母なる母神」を「男神エホバ」が出し抜こうとするあたりが、その転換点であったのかもしれない。

 少なくとも聖書が執筆された時期には、男系社会が浸透していた可能性があるだろう。あるいはヘブライ人が、いわゆるカナンの地を攻めてゆこうとした段階で、より男尊女卑が強まった可能性もあるだろう。

 そうした背後関係で、聖書においては「母神」の存在はすでに抹消されており、その気配を伺うことはできないが、近隣の中東神話には、当然その痕跡がバラバラと残っていた、というわけである。


(つづく)


 

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