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人権という虚構と宗教

 解脱者を称しているだけあって、いつも何かを悟っているのだが、最近「またひとつ、つまらぬものを悟ってしまった」ということがある。

 それは、

”人は、神の代わりに人権を想像し、生み出した”

ということである。

 「神は死んだ」と言ったのはニーチェであったが、世界のありようや、その成り立ちを説明するために生み出した「神」という存在を殺し、卒業した近代の人類には、人類としての独立した歩みを踏み出す必要があったのだが、神を失った代理のように「人権」の概念を発明してしまったのである。

 はてさて、どういうことか。

 人間が人間としてこの世界にある理由、あるいはこの世界で生きていってよい理由付けとして、最初に発明されたのは「神」という概念だ。

 もともと、なぜこの世に生まれ落ちたのかちっともわからない人類であったが、ほっとけば寒さや飢えに苛まされるし、突然災害は襲ってきて命は奪われるし、周囲をいくら見渡しても「何が起きてるかちっともわからない」状態で右往左往するばかりであった。

 そこで「神」を発明する。こうした事態は「神の意志によって引き起こされるのだ」という理由付けの発明である。

 この考え方はたいへんにうまくいった。この世界で起きていることのハッピーや、反対の理不尽の理由として、「神の意志、神の機嫌」を設定することで、ある程度合理的に見えるような説明が可能になったわけである。

 神の意志に沿っていればいいことが起きるし、神の意志に反していれば良くないことが起きる。今身の回りで起きていることは、そういう理由なんだ、と説明することができたのである。

 なので、この神という説明ツールは比較的長く利用され、神の時代は長く続いた。そう、近代に至るまで神は、西洋文明においても、その他の文明においても理由付けとして有効であったのだ。


 ところが、近代において、とくに西洋文明では「神からの卒業」を思いついた。神はいない。よって王権や政権は神によって任命されたものでもないし、ましてや教会の権威も実は存在しない、と考えたのである。

 そこから主に政治において、主権は王や権力者ではなく「人民」にあるという発見がなされた。フランス革命などはその象徴であろう。

 ところが、神と王権を卒業することはできたとしても、「神っぽいもの」から人類は脱却できておらず、実はいまでもそうだ。

 21世紀の現代社会においても「神はいない」と考えることはできても「神っぽいものはいない」と考えるには至っていないのである。

 その「神っぽいもの」の最も代表的なものが「人権」である。「人にはもともと、誰にも侵すことのできない権利があるのだ」という考え方だ。

 これはそれまで世界を説明するために使われた「神」よりも新しく、ブラッシュアップバージョンだが、実は本質的には、あまり違いはない。

 なぜかというと、「神がいて、神に愛されている、神に認められている、神に加護されている」という考え方が神の時代の発想だとすれば、

”人権があって、人権が認められていて、人権で守られている”

とする現代人(とくに西洋人)の考え方は、文字が違うだけでほとんど変わらないからである。

 面白いことに、「天に神はいない」と人類は考えて卒業したのに、「人権は最初からあり、天から降ってきたものだ」と考えている。

 「人間には尊厳があり、人間には権利があり、人間には人権がある」と言い放つのは簡単だが、

「ではそれはどこからやってきて、どのように保証され、もし損害を受けた場合はどのように担保されるのか」

という実にシンプルな、当たり前の疑問には誰にも答えることができない。

 それはまるで「神はどこにいて、どうしていて、どのような意志を持っているのか」に、誰も答えられないのと、非常に似ている。


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 結論からズバっと言えば、「人権」なんてものは実は存在せず、「そう言っているだけ」である。

 そう言っているだけで実は存在しないから、人権はすぐに毀損される。

 ロシアにミサイルを打ち込まれたらすぐ人は死ぬし、その損失は回復されないし、安全は担保されない。

 京都アニメーションの事件のように、一人の人物の思いつきで何十人もの命がすぐに失われる。

 命と命は釣り合わないし、非常に軽く、簡単に毀損される。

 このとき、「それでも人権はある」と西洋人は言うが、その証拠を物理的に示すことができないから、まるで宗教のようなお題目と化してしまうわけだ。


 この宗教論争のような問題をどのように整理すれば、すっきりと解決するのだろう。

 これも実はめちゃくちゃ簡単で、「人権なんてものは存在しないので、それを作り出そう」と考えれば、とてもわかりやすい。

 もっと言えば、人権とは「紳士協定」なのである。

 人権は存在せず、命や尊厳はすぐに毀損される。

 ジャニーズ事務所問題のように、一方的に侵されるものである。 

(何度でも言うが、人権がないので侵されるのだ)


 そこで、二人の人間がいて、互いに紳士協定を結ぶ。

「私はあなたの領域を侵害しない。なので、わたしの領域も侵害しないでほしい」

「おお、それはいい、私もそれに同意しよう」

 これが「人権」である。

 相手の権利を認め、相手もこちらの権利を認めるという権利協定なのである。


 そもそもの天賦の権利発生はなく、(天から降ってくるものではなく)、いちから契約を交わすものなので、契約を交わしていない相手とは、人権は無効になってしまう。

 だから、ガソリンをまいて火をつけようと思っている男とは、契約が成り立たないから、人権は毀損されるわけだ。

 国境外からミサイルを打ち込もうとする相手とも、契約が成立していないから、人権は傷つけられるのだ。

 この世界で起きていることを矛盾なく説明できるのは、「人権がない」という事実が正しいからである。


 というわけで、人権はそのままでは「虚構」の概念であり、実態を持たない。むしろ神の時代のように「宗教」に近い。

 ところが、契約としての人権はとても有用な考え方なので、「互いに協定を結んだ相手」同士では、かなりの力を発揮する。

 なので、21世紀の今ではまだそこまで発展していないが、22世紀になると、「この人権協定を互いに結ぶこと」の重要性が、もっともっと文化文明として取り上げられるようになるだろう。

 たとえば、「性行為について合意があったかどうか確認しながらエッチをすべきだ」といった議論の発生は、この考え方に非常に似ている。

 これから22世紀になると、生活の多くの面で「相手の人権を侵害しないようにすべく、紳士協定を結び、確認しあう」ということがどんどん増えるだろう。

 そして、その先にあるものはとても興味深い社会だ。

 それは、「紳士協定を結ばないもの」「人権を認めようとしない相手」が発生したら、そいつを排除しよう、という機運が生まれることである。

 こちらは相手の人権を認めているのに、あちらはこちらの人権を認めない、というのであれば、「そいつは排除せよ」ということになる。

 つまり、ガソリンをまいて一方的に殺そうとするものは「殺せ」ということになるのだ。

 (ちなみに現代は21世紀なので、人権を認めず「他人のことなど知らねえや」という人間は、ガソリンをまいて殺人を犯すまで、別に殺されはせず自由にしていられる。ところが、22世紀になると、「他人のことなど知らねえや」という思想を持っていて、それがチラチラ見え隠れする段階で排除されることになるだろう)

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  さて、まとめに入ろう。

 人権とは「努力して手に入れ、維持するもの」である。けして「生来備わるもの」ではない。

 「人権というインフラ」を維持するには、耐えざる努力とコストがかかる。そのコストを払わないものや、その努力に加わらないものは、人権を享受できない社会がやってくる。

 それをわかっている人間だけが、これからの世界を生き延びることができるだろう。

「俺には人権があるんだ!だからそれを享受できるはずだ」

と言うだけの人間は、「その維持のために君は何を差し出したか」と必ず問われることになる。

 人権フリーライドの時代は、いよいよ終わりとなるのである。

 よーく社会の動きを見ていると、それに気づくはずだよ。

(おしまい)




 余談。「人命は地球より重い」と言った政治家がいたが、たしかにその言葉は、ことばとしてはかっこよく、耳障りがいい。

 ただし、耳障りがよく、一見するとそれっぽいだけで「かっこいいだけの方便」である。

 こうした方便を聞いて「そのとおりだ、そうだ」と素直にそう思ってしまうのは、アホだからだ。

 言いたくはないが、政治家のちょっとした(かっこいい)方便にすっかり騙されてしまうというこちら側の知能の低さを露呈するだけである。

 科学的な知性があれば、「人命と地球の価値を算出して比較する」ということをかならずやるし、それができてこそその言葉には実効性が出てくる。

「世の辞書に不可能という文字はない」

とか

「打たないシュートは100%外れる」

とか

「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。」

とか、そんなのと一緒で、かっこいいけど、よく考えたら

『だからなんやねん』

というレベルの話なのだ。


 人権はかっこいいかどうかの問題ではない。命がかかっているのだ。吹けば飛ぶような命だからこそ、それを必死で拾い集めなくてはいけないのである。

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