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【宗教2世ごろごろケア日記16】生きづらさの原因は0〜3歳にある?


 今回は自分なりの気付きというか、考えをまとめるためのメモ。

 支援者講座の記事を書いている時に見つけた論文が、かなり宗教2世の「生きづらさ」の原因や状況を的確に表しているのではないか?と感じたので、こちらでも考察のためにピックアップしておきたい。


「受容と共感は、本当は難しい」福田倫明 (大学と学生515)

https://www.jasso.go.jp/gakusei/publication/dtog/__icsFiles/afieldfile/2021/02/17/daigaku515_06.pdf


 この論文、著者は精神科のお医者さんで、臨床的に患者と向き合っておられる方と思う。現在は日赤病院におられるようだ。


 話の内容そのものはロジャーズのカウンセリング理論と絡めながら、受容や共感の「支援者としての立場から考える、難しさ」について述べたものだが、著者はまったく宗教2世のことを意識せず、通常の心理的な問題を抱えた患者さんについて述べているのに、それが実は

「宗教2世を取り巻く問題や原因をズバッと語っている?」

ものになっているところが衝撃的だった。


 宗教2世界隈で、生きづらさを感じている人たちの言説を集めてゆくと

■ 母子の関係に悩んだり、特異な関係性が見いだせたりする
■ 愛着形成の問題と、生きづらさの結果が、関係している
■ 子ども時代の宗教体験が、30代〜50代など、かなりの年齢まで薄まることなく影響を与え続ける


といったことにおのずと気づく。特に母娘間でのトラブルや、気持ちのすれ違いは、量的にも多い。


 そうした漠然とした「疑問」を抱きながら、この論文を読むと、奇しくもそれらの答えがはっきり書いてあるのである。ああ、すごい、というか恐ろしい!

 論文の骨子はこうだ。

■ 生きづらさを抱えた人たちは、周囲との関係性に悩んだり、苦しんだりしている。

■ その苦しみは、マジだ。真剣なものだ。しかし、支援者や周囲の関係者からみると、ほんのちょっと視点を変えたり、考え方を変えたりするだけで解決するように見えるものも多い。

■ お互いの論点がズレているので、被支援者と支援者は噛み合わない。最終的には支援は疲弊する。

■ なぜ生きづらさを抱えた被支援者は、(周囲から見て)奇妙な言動を取るのか。それは、今の現在の人間関係の中に「赤ちゃん時代の満たされなかった思いをぶつけている」からだ。

■ 0〜3歳児だった赤ちゃん的人格が、現在に出てきて周囲と軋轢を生んでいるので、自分も他人も、それが原因と気付かない。

■ 60歳や70歳になって、老人医療や介護の場面でそれが出てくることだってある。

■ そもそも、0〜3歳児だった赤ちゃん人格が求めているのは「母親」だ。その対象となれるのは、母親一人しかいない。理想の母親、安心な居場所や、思うどおりに動けない赤ちゃん(自分)を、100%愛してくれる存在を求めて、それを投影している。

■ しかし、そんな理想的母親は、過去にはおらず、現在の本人の母ですら、その代理にはなれない。(つまり、その願望は永遠に満たされない)

■ 過去の赤ちゃんの願いを叶えるということは不可能だ。もしかすると精神医療やカウンセリングは、そこで限界を迎えるのではないか?医師として、もがきつづけたいが・・・。


という流れである。


 この話、そっくりそのまま宗教2世にあてはまる。

 母子間に何かがあるはずだ、という気づきは、「赤ちゃんは母を求める」ことに由来するとすれば、合致する。
 愛着形成のことも0〜3歳児の時の体験が影響を与えるという。
 年齢を重ねても引きずる宗教体験は、過去の問題が現在に飛び出すことと合致する。


 おお、もしかするとこれが、宗教2世の生きづらさの正体なのではないか?

ということなのだ。


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 しかし、武庫川さんのごろごろケア日記としては、この考え方をベースに、あとわずかに加筆したいことがある。それは


■ 一般の成長過程においては、0〜3歳児は自分では何もできず、母に生存を委ねているため、「制限」がものすごくかかっている状態である。

■ なので、一般の心理状態において0〜3歳における体験が、人格形成に直接影響を与えることは、十分に理解できる。

■ しかし、というか加えて、以下の点に留意したい。
 本来なら幼児期や学童期に成長してゆくプロセスの中で「母に頼らずとも自分でできることが増えてゆく」から、自我が適切な伸長を見ることができるが、宗教環境下にある親子の場合「0〜3歳時を超えて、制限的な縛り付けがずっと続く」ということが起きる。それは教義等に由来する制限だ。

■ すると、通常の成長プロセスにおいては0〜3歳時に限られる「赤ちゃん状態(制限状態)」が、宗教2世の場合は、4歳時以降も、続くことになる。それは「追加された制限、延長された制限」ということができる。

■ この追加、延長された制限が、未発達の象徴とも言うべき「赤ちゃん時代」を延長させることになり、「安心を求める願望や渇望、注がれるべき愛情を求める心」をも、さらに延長させることになるだろう。

■ その代償としての「宗教2世の生きづらさ」が存在し得るのではないか?


ということだ。


 この、言ってみれば「赤ちゃん延長仮説」こそが、宗教2世の生きづらさの元凶なのではないか?というアイデアを立て、同時に、この動きの作用機序について、心理学者等の間で今後の研究が必要なのだと提唱してみたいわけである。


 この仮説を裏付けるような、ふわっとした経験則がある。それは

「宗教に入る前の親の姿を知っている2世は、それ以前の親の姿を信じることができる」

ということだ。

 つまり、「(宗教によって)おかしくなる前の親の姿を覚えていることが救い」となる場合が、あるのだ。


 これは、「赤ちゃん延長仮説」に合致する。

 つまり、この2世の場合は、0〜3歳時までは、ふつうの赤ちゃん暮らしをしていて、そこに大きな不満や欠乏がなく「愛されて育った」可能性が高い。

 そこに後から宗教がやってきて、親は変化してしまい、「途中から制限環境下におかれるようになった」が(ここではじめて制限がスタートする)元の愛情部分はちゃんと受け取っているので、2世としての生きづらさは少なく、親に対して冷静な見方を保つことができる、という感じである。


 もちろん、これも仮説なので、今後の検証が必要なことは間違いないが・・・。


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 元論文の著者は、精神医学やカウンセリングの限界にも触れ、この

「永遠に満たされず、取り戻せない赤ちゃん時代の理想の母」

をどのように解決したらいいかに悩んでおられる。

 もしかすると、これは「解決しない問題なのではないか?」という言葉まで口にすることで、この問題の重さについて提言しておられるわけだ。


 ただ、武庫川さんとしては、もともと「支援者やカウンセラー、医師が患者を治すわけではなく、患者(支援対象者)本人の回復力を引き出すのが役目」だと思っているから、当人の治癒力に期待したい部分もある。

 せめて、「こうした理由で生きづらさが生じているんだね」という理解を進めてゆくことで、支援者側も、生きづらさを感じている当人も、たくさんの気づきを得ながら、人生を模索することができるのではないか?という淡い期待である。


 やはりここは、最後に、西尾維新の物語シリーズから、忍野メメの名言をもって話を終わりたいところである。


『人は、一人で勝手に助かるだけさ』


(おしまい)

 





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