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表現者は変人で「あれ」ではなく、「すでに」変人なのだと思う。

こんにちは。

「表現者やアーティストは変人であれ」「変人になれ」
という言葉にとても違和感を持つようになった。

このコロナ渦で、遠くの表現者達から、
「そもそも表現というのはヤバいやつらが始めたことなのだから、今のようにヤバい状況下でもやる。変人であれ!」
という言葉が聞こえてきた。

いやいやいや!

「表現」という身を曝けだす行為に身を捧げている時点で変人なのだ。
立派な立派な変人なのだ。
その上で「変人であれ」というのは、「変人だから仕方ない」という言い訳を免罪符のように掲げ何かから許されようとしている言葉に聞こえてくる。表現活動さえしていればいいというような無責任さすら感じるようになった。

すでに変人である表現者は変人なりに学び、
国や世界がどうまわっているのか、
自分の知らない業種や人達がどんな活動をしているのか、
政治や差別や環境問題、
自分たちがどこからきた何を食べているのか、、、
あらゆる世界を知ろうと働きかけることで、
自分たちの「表現」は、
多くの人(世界)に届き始めるのではないかと思う。

私は、昔から気に入らない傘をさすくらいなら雨に濡れたほうがいいという発想で生きてきた。
これはとても変に思われる行為だと知ったのはずいぶん後になってからで、ずぶ濡れの大人は周りを大層心配させてしまうとわかったので最近はビニール傘を借りたりするようになった。
するとビニール傘の素敵さにも気がついた。
雨の空を見上げ、雨粒の着地をダイレクトに感じることができるのだ。

これがもし「変人であれ」という活動の1種だとしたら、頑固にずぶ濡れでいつづけ、雨粒の着地を目の前で見届けられるキラキラの空も知らず、周りの心配も届かないことになる。それはもはや面倒な人だ。

何かである必要はない。
きっともうすでにそうなのだから、安心して柔軟でいたい。

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#週1note というのに参加させていただくことになりました😊
よろしくお願いします。