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くだらないこと

 「家族」はどうしても書きたい、書かなければ死ねない私の命題。それを小説として物語としてこの世に残したいと請い、筆力を増したいが為に7年前、ネット詩に足を踏み入れた。

 以前にも記事にしたけれども「いいね」という軽い機能ではなくて、書いたものへダイレクトに、且つ自分が受け入れ難い評を時には長文で、時には人格までも否定され、無償の労力によるコメントをいただける空間がネット詩。

 他人依存して芸事が上手くなるわけがない。その通りである。あくまでも自身が主体者でなければならない。また、以前から主張する通り誰にも知らせることもなく海にでも捨ててしまうのが詩文本来の在り方である。

 久しぶりに柄谷行人さんの示しを今日読んだ。命懸けの飛躍について。詳しくは検索をかけてください。私の身の丈からすれば大袈裟ではあるけれども、ネット詩7年間の活動は命懸けの飛躍だったのだと確信している。他人に知らせるものではない詩文とネット詩の在り方は矛盾している。そうではあってでも、そうではないのだと、言語化すれば観念にすぎないその一点で、私は自分と自身の内にある他者を信じている。否、私は信じきりたい。命懸けの飛躍とは言語化できないのではなくて「言語化しない」胸の内にある。

 私の命題はまだ始まりの予兆でしかないだろう。それが昨年書いた作品くだらないこと。

         *

そうだね、あれは二千年の冬だったかな。世紀末、世紀末だね、今日は冷えるね、世界はもう終わりだねって笑っていたの。そういう空気が世界を覆っていたかな。思い出せる人はわかるよね。ああ、そうだったねと、あの頃も今もそう変わんなくないかなと、そんな感じ。世界ってどの辺り?そうだね、あなたの手の中からフィンランドのてっぺん辺りまでかな。ばか!笑。そんなくだらないことをさ、語ってみようかなと、くだらなさ過ぎてキャラメルコーンみたく口の中でじゅわあって広がらないかなと。そんな感じです。象徴ってあるじゃない?言葉ってそのあたりから生まれたのかな?ほら、あれだ、人類は火が起こせるようになった?木をとんがらせて動物を食えるようになった?その頃なんだって。言葉が生まれたのって。わからなくはない、ああって、ああなるほどーって感じするよね。あの、それ、これ、ってそれだけじゃいけなかったんだろうね。火って。木って。食べるって。そういう風な必要があったんだろうね。世界ってすごいね、やるんだね、人類は。話は変わるんだけどさ、最近ね、思い出したの。世紀末よりちょっと前ね。十年くらい前なんだけどもさ、観念的なことを言う人間にだけは絶対にならないって決心してたんだよね。心細くてね、ひとりぼっちで生き延びなきゃって当時は十五万円くらいかな毎月のお給料ね。十五万円から家賃や光熱費を引くと七万円ぐらい手元に残って。あー自炊しなきゃ、着る服は1つ2つでいいかなって。あんまし仲良くしてくれる人はいなかったけど、なんだろう、あーって、他人を羨ましがってさ、人とおしゃべりしたり友達になって、一緒に遊んだりみんな羨ましいなあって思ってたかな。そう、卑屈にね、そういう欲が屈折してさ、おれは観念的なことをいう人間には絶対にならないって。意味わかんないよね?なんでそういう結論?みたいな。でもさ、いいんだよ。生き延びれただけでいいの。生き残れたのね。僕は一家心中から生き延びれたの。血の雨をみたことみなさんはあんまりないとおもうけれども、そうだよね、その後にバブル景気の時代があってさ、みんな羨ましいなあって。それでね、マンホールから下水道に入ってドブさらいをやってる時なんかね、綺麗な人たちの靴の形とか幸せさとか、そんなものをマンホールの下から眺めては感じながら、真っ暗な下水道で下半身半分ぐらいまで汚水にまみれてね、観念的なことを言う人間には絶対にならないって繰り返していたの。呪いってそれを言うの?そうだったのかもしれないね。わかんないや。あー、でも、だからかな、世紀末?もう世界も終わりだねって時代にも笑えていたし、今も僕は笑えているよ。そうだよ、みんな。おとうさん、おかあさん。

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