見出し画像

滝本政博詩集『エンプティチェア』


 私と滝本さんにはひとつ共通項がある。ふたりともいいおじさんでありながらSNSで自撮り画像をよく出していること。コーヒーカップを見栄えよきアングルで撮り出すように、部屋にある空っぽの椅子をありのままに撮ってみたくなるように。みなさんはどうだろうか。自撮り画像を出すのが恥ずかしいだろうか。プライバシーが侵される怖さと抵抗感があるだろうか。自作の詩を出すことには抵抗がなくて、なぜ自撮り画像は嫌なのだろう。詩は言葉なんだから、顔はみられてはいない。けれども、詩を書こうとする瞬間、あなたは鏡をみることになる。組み立てようとする言葉の目的が気取りや見栄えばかりを気にしていたり。他人様に読ませるものなのだからと正当化の沼にハマっていたり。気ままに書かれた言葉は気ままにしか読まれないし秒単位で陳列が変わるSNSというショーケースにある詩は、読まれるよりも前に軽薄な言葉の扱いが自身を無自覚なまま蝕むだろう。但し、自らを曝け出せる者は軽薄さを超越した次元でSNSをやっていたりするから論外。

 詩を書こうとする行為に限定すれば、その語句からは顔がみえる。他人に「みせようとする」顔がある。常日頃、私は、詩にだけは絶対に騙されたくないと思っている。『エンプティチェア』はそのような警戒をせずに読めた。五十、六十を過ぎた男の自撮り画像とはつまりそういうことなんだ。その安心感と併せて、冒険者でもある。

 五十を過ぎて詩を書こうとする行為の奥底には純白がある。その白さを誰も気が付かないかもしれない。45歳にして詩書きを始めた私には見える。幻のように。

『エンプティチェア』のはじまりから七篇目に「何処にいるのですか」という作品がある。SNSに背を向けている私の唯一の正義、その正直さを持っていってしまうけれども、この作品を読むまでの六篇に読み入ってしまう詩はなかった。正確にいうと「何処にいるのですか」の1連目を読んで覚醒した。

何処にもいない人を捜している
その人に逢ったならば
まず謝ってしまおう
わたしのした悪いことすべてを

なんだろうと思った。五十五歳を過ぎ全てに執着心を失くした私のどうでもいい触覚は「まず」謝ってしまおうという口実に感じるものがあった。この作品の最終連を紹介したい。

何処にもいない人を捜している
そしてあなた そしてあなたを
やり直すべき経験などない
すべてはおきてしまった

 私がそうであるようにおそらく、滝本さんにも後悔などないのだろう。若い時代にあった後悔はしたくないという願い。意外と後悔などしないよと、そうあなたに言っておきたい。けれども、純白をじっと持ち続けてなくちゃいけないんだよ。理屈が飛躍しててなんのことか、あなたにはわからないかもしれない。自撮り画像をあなたが五十を過ぎて出せたらと、そう止めておこう。

詩なんてものは猫被りでいいんだとおっしゃっていた著名人がいた。その通り。自撮りは猫被りであり、下手な詩人は気取っていることにいつも無自覚だ。裸の王様のように。滝本さんはそうではない。自撮りの男子は詩を書く最低限の素養を当たり前に持っている。裸の王様のようには椅子に座らない。椅子は空けたままに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?