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やっぱり全てはキャパシティー

断捨離から始まった2024

昨年からだいぶ進めているけれど、暇があるときに断捨離を実行してきた。その結果、ストレスや疲れの軽減を感じる。そして手放したものに未練があるどころか何を手放したかすら覚えていない。あれがあればよかった、なんてことは今のところない。
2024年元旦は、前日に疲れ果てて20時に寝てしまっていた結果、翌日は2時に起きた。疲れもなかったので、予定外に空いた時間に断捨離をした。実にいい年明けだと思った。

ミニマムリストが流行っているけれど、田舎暮らしはなかなかそれはできないと思う。車を持ち、更にはタイヤの交換が必要な寒さのある地方では、冬用タイヤが必須だし、自分で変える場合にはそれに伴う道具も置いておかなければならなかったり、ついでに車のオイルとか、その他諸々。それは都会でも一緒かもしれないけれど、私は猟師なので、猟に必要な道具は大物小物と結構ある。それに服は、普段着と一張羅以外に、山用の汚れてもいい服、防寒着、靴も長靴3足に足袋もある。更にクレー射撃のときの服とそれ用のスニーカー。射撃の道具も安くないから、今使わないものでも捨てられないものはある。ガンロッカーなんかも場所はとるけれど、これは一種のインテリア化しているし、我が家の場合は場所の関係上、装弾ロッカーの上が化粧台になっている。女の生活の中に銃が融合する、かなりマニアックな部屋になっている。
これ以外にも、山の麓には野菜をくれる優しい人がたくさんいるから、冬野菜なんかは新聞に包んで部屋で保存しているし、2023年には頂いたかりんで、初めてのかりん酒を漬けた。その大瓶の隣には年代様々なマムシ酒が数本並んでいる。
こんな部屋なので、ミニマムリストには程遠いが、目に見えるもの、選択肢が少ない方が時間の節約になるし、疲れない。
アスペルガーや発達障害という言葉がネットやニュースでよく出ているけれど、選択肢が少ない方がトラブルがなく、ルーティンワークの中での日常がその特性を活かすというのは全人間に当てはまるんじゃないか?と思う。
本来は、三が日は作り置きのお節を食べながら、掃除もしないで過ごすことを推奨しているお正月。逆に掃除をすると福がいなくなってしまうらしい。そんな神様の教えを裏切りながら、早々から断捨離をしていることに若干の罪悪感を覚えながらも、やっぱり不要なものがなくなるのは気持ちがいい。

妬みと僻みもあっちいけー!!(ヒム子)

ヒム子とは、バナナマンの日村のキャラクターで私はとても好きなのだけど、ダンスがキレッキレで、失礼だけどあの体系の中に、コアの筋肉が凄いんだろうなと尊敬すらしてしまう。そしてヒム子のあっちいけー!の威力は、そんじょそこらのお祓いを受けるよりも、何か身の回りにある悪いものを遠ざけてくれそうな勢いがあるので書いてみた。それだけ。
私は結構な確率で常に自分の生きがいや夢や目標を持つタイプだと思う。向上心があるというのは悪いことじゃないと思うし、少なくとも誰にも迷惑をかけていない。私のそれらを持つとき考えるとき、ベースには社会貢献になるか、誰かの役に立つかを考える。
私に簿記を教えてくれた税理士の先生は、仕事=社会貢献をしてお金を稼ぐことは悪いことじゃない、お金は非常に大切なもの、お金はありがとう料だと教えてくれた。先生はその話を非常にしばしばしてくれた。
お金があれば、それをまた違う形で社会貢献することもできるし、お金は悪いものではない。貧乏が悪いことではないし、不幸せなことでもないけれど、私は自分のキャパに合ったお金は回ってきてほしいと思っているし、自分が今回しているお金が自分のキャパだと自分を律している。これは今の自分に限っての話で、人のことはそうは考えていない。人の評価は株式相場。それと似たように、お金は天下の回りもの。巡りが良いときもあれば悪いときもある、と思う。それは私も同じかも。

2024年は、私は昨年よりは稼がないといけない。それが自分の成長度合いにも比例する気がしている。というのも、私はall勤め人ではないから、自分で結果を出せる部分もある。一刻も早く、フリーという名のフリーターを卒業したいものである。

ところでそんな若干老い気味の夢追い人には色々な人たちが周りにいたりする。下は年が一桁、上は80over。
あれは年が上の人だった。その人は私に「あんたはいいわね。たくさん夢があって。これからの人だもんね」と、自分の現状への不満、将来の不安から私に唐突に妬みと僻みを思いっきり混ぜ込んだ罵詈雑言をぶつけてきた。私は決してその人に何も自慢などしていない。ただ、夢や楽しいことはひたすら語ってしまった。なぜって、ともすると、マイナスな不安や心配をずらーっと言葉でこちらに発してくるので、それを散々聞いた後に、最後の締めにプラスの話題を持ち込んだのだ。

私はそのとき、全くもって大きな額を稼いでいたわけでもないし、当時今以上に苦労に苦労を重ねているときだった。見る人から見たら、いや常識的な人だったら思うはず。私の条件的には全てが最底辺な時期だった。だから予想もしていなかった言葉に一瞬驚いたのだが、この人は、過去にも同じようなシチュエーションで私に怒ったことがある人で、当時のその人は、今よりは未来があったはずなのに、なんとバブルを未だに引きずっていて根っからのキリギリスタイプ。収入と比例しないバブリーな金遣いで破滅の道を行っているように私には見えた。そして今その人は体が不自由になり、非常に辛いのだと思う。でなければ、健康だけが取り柄の私に怒る理由が見つからなかった。
体調が悪いのが長く続いたときには、はつらつとした人を羨ましく思う気持ちが出てくる。けれど私は妬みはしない。もしも妬みの気持ちが出たら、意識して消す。妬んだところで自分に何のメリットもないし、それならば建設的に今できること、明日のことを考えた方がいい。あんまりにも辛いときには、先のことは考えない。だけど、自分が譲れないことだけは頭に留めておいて、あとは今日と明日のこと、今の自分にできることを考えるようにしている。
私はこの出来事から、この人との付き合いを一切辞めた。辞める直前は、体が不自由なことや、インターネットが得意ではないことから、遠い場所に暮らす私に様々な買い物を遠隔で頼み、その電話は昼夜問わずかかってきていた。こちらは損得などは考えていなかった。困っているならと思ってできることはしてきた。これがあれば便利かもと思ってこちらが送ったアマゾン経由のプレゼントは、その人の家で開封すらされず、戸棚に仕舞われていて、あれが必要、これが必要だと更なる要求を受けたときに心が冷たくなったのを思い出しながら。
罵詈雑言を浴びるなか、これらの出来事が私の脳内でピタッと統合された瞬間、今、この人と繋がっていたら、マイナスにしかならない。思いっきり妬みと僻みのこもった言葉を一方的に投げつけられた電話を切ったあとに、ふとはっきりと思った。
感謝もある。だけど、今は、お互いの為にならない。波長が合わない。

私は長年、来るもの拒まず、去る者追わずの精神だったけど、このときから変わった気がする。それは決して物の断捨離と同じではないけれど、今は、この人じゃない、という気持ちだった。
決して嫌いになったわけでもない。ただ、今は近くにいない方がいい、と。私の堪忍袋のキャパを超えてぷつっといった結果、価値観を変えてしまった出来事だった。

Time is money.

金で時間は1秒も買えない

だけど、夜な夜な飲み物片手にする長電話は楽しい。生産性のない中にこそ、楽しさはあると思うし、そこから生まれるヒントもある。
しかし、そもそもマイナスな電話が大嫌いな私は、建設的な悩みは聞くけれど、ジャグリングする電話はうんざりしてしまう。
自分がどうしようもなく落ち込んだとき、本当に申し訳ないと思いながらも誰かにヘルプを求めることもあった。そんなとき、相手も答えようがない、ただ聞いてほしいだけの電話なら、それは一回きりにすると私は決めている。相手の時間をとるから。それでも優しい友人たちは、その電話のあとに心配の連絡をくれたりして、そんな連絡に光を感じながら、手探りで過ごす中で、気が付いたら暗黒の悩みのるつぼ、又は非常事態から抜け出せていたりしていた。ただひたすらに感謝している。そして自分も逆のことはしたいと切に思う。

負の感情に浸るのは一種の依存で快楽だと思う。だけど私はそこに甘えずに前を向きたい。ただそれだけ。そしてそれが周りの人に悪いことにはならないと思う。少なくとも不幸の共感より幸せの共感の方が幸せに近くないか?

私は光の中に戻ってきたと感じてきたその時に、調子に乗らないように心がけている。つまり中庸。どこまでも中庸。追い詰められているピンチの時にもなるべく飄々として、上がってきたときも決して図に乗らない。難しいけれど、これが一番自分が楽だし、人にも優しいと思う。いい大人が、いちいと己の悩みで落ち込んだ様を見せて、人に言葉や表情から心配をさせてしまうことってどうなのよ。何があろうと、いつも変わらない人の方が、付き合っていて楽だし、それが大人ではなかろうか。楽しいことはいくら発信してもいいけれど、悲しいことはなるべく控えた方がいい気がするけどな。
時々、自分の感情のままに上がったり下がったりを繰り返す人もいるけれど、あれは自分が疲れないのかなと思ってしまう。そして、そういう人に何を言っても無駄なのだと最近悟った。
自分が人に思っている以上に、人は私のことなんか考えていないのだと。人の話が聞けないのなら誰かと話すべきじゃないと思うんだけど。色々な人がいるわけだし、私は犬の糞を避けるように、その負の感情のとばっちりを受けることは避けながら、淡々と生きてる。

自分より恵まれた状況にある人、図星を言われた人、そしてやたらとプライドだけはいっちょ前に高いくせに、生活とお財布事情がかみ合っていない人は、人に攻撃的になるタイプもいるのだなと思った。もう新種のポケモンにでもこういう性格が特徴的なの入れて~。1000匹もいるんでしょ。
常々思うけれど、私は自分より凄い人には素直に喝采を送れる人でいよう。年が上でも下でも関係ないよ。そしてその人と自分を比較なんかしないよ。切に思う。自分なんかちっぽけだと思っているから、凄い人って結構たくさんいる。そんな人のいい所だけを真似して頂いちゃって、自分のものにしていって、去年より少しでも成長していけたらいい。キャパを広げていこう。お財布事情もな。

☞いつも陽気に歌いながら

彼女はいつも陽気に歌っている。これは本当に本当で、彼女はミラーボールが回るなか乳飲み子の時代を過ごしたからなのか、根っからのクラバー。三つ子の魂百までを考えると、なんか心配になってしまうし、僕にマイクを向けてくるのはぎょっとすることもある。そして決してうまいわけじゃないけれど、即興のアドリブには目を見張るものがある。今日は僕がいつも食べるカルカンパウチが年始の目玉商品だったから安く買えたことを歌にしていた。だったら、いつもの倍くれたらいいのに、いつも通りの量だった。おい、僕の胃袋のキャパは思っている以上に宇宙なんだぞ。もっとくれ。
彼女曰く、僕は結構お金がかかるそうだ。僕にはお金の概念がないけれど、僕は彼女がくれた鹿やアナグマより、カルカンのパウチといなばのちゅーるが断然好きだから、それは絶対になくてはならない。それがお金と交換ならば、彼女にはがっぽり稼いでもらう必要がある。
彼女の断捨離の理由のひとつには僕がいる。僕の毛が抜けるので、床には荷物がない方がいいし、なるべく物が少ない方が掃除がしやすいらしい。
僕としては、僕のキャットタワー1階に、保存野菜や、お風呂用の柚子、買い溜めした飲み物を置くのを辞めてほしい。野菜は新聞紙に包んでいるし、飲み物は蓋が開いてないからいいだって?
それは僕が液状化を疑われるくらい自分の体を変形させることができるからいいだけで、犬ならアウトだぞ。断捨離するなら、まずキャットタワーに物を置かないでほしい。はっきり言って邪魔。

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