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大西香澄個展「Contents of absence」展について

ヘッダー写真=撮影:松尾宇人

はじめに

 2022年の7月16日~8月14日まで墨田区のToken Art Centerで開催されていた大学の同期の大西香澄の展覧会に行ってきた。なかなか見応えがあったし、自分がインスタレーションについて修論で書いていたことにもかなり関係した興味を共有する内容だったので、せっかくなので文章を書いた。少し長くなってしまったが、行けなかった人にもどんな展示だったのか、どんな風に面白かったのか伝わるように、かつ、他のインスタレーション・アート作品群とどんな風に関係がある展示だったのかを書いたので良かったら読んでみてください。

Absence、つまり在/不在への関心について

 この展覧会にある作品群は、共通の関心に沿って作られている。
 
 会場に入ってすぐの白壁にプロジェクターで映し出される映像は二つの別の「世界」から構成されている。一つは日本のどこか河川敷の近辺の「身近な感じのする」映像である。しかしいずれも地面やその地面を構成するコンクリートや砂利の一粒一粒、生えているボサっとした草木の一本一本のその奥にある草たちを凝視しきれないほどに見つめるシーンに移行し次の展開に不穏さを予感させる映像である。2つ目は「ちゃいろ」と呼ばれる縦縞のパジャマを着た生き物の暮らす屋内からはじまるシーケンスである。二つの要素とはつまり、カメラを向けて映し出された身近で不穏な世界と、「ちゃいろ」の居る家である。この二つを往復することが、本展の他の作品たちにも共通している。この二つの往復、作品の中で提示される「世界」が一つに固定されていないこと、複数のものが常に選ばれないまま留保されていることが共通の関心である。展覧会のタイトルに寄せて説明するならばContentsが在る状態と不在の状態とが同時に語られることがテーマであるということができるだろう。

脱中心化の概念を主題とすること

 この展示で取られている手法はインスタレーションである。インスタレーションとは「設置する」ことを意味する現代アートで用いられる表現形式の一種で、鑑賞者たちは自由にその展示空間を歩き回りながらそこに配置された映像や平面的、立体的な要素をもつ作品を観察する。この鑑賞のあり方は1990年代から盛んに美術批評でも議論されてきた。[i]

 大西は2000年代後半から東京藝術大学先端芸術表現科で学び、インスタレーションやその影響を受けたリレーショナルアート、サイトスペシフィックアート等を含む実践の場を身近にしてきたアーティストである。伝統的な絵画や彫刻が世紀を経てもその完結した価値を失わずに何度でも再展開されることに反して、これらの1990年代以降から盛んに発表されてきたアートの形式は展示される会場や環境ごとに形を変え、その場の鑑賞者を巻き込んで変容することを一つの特徴としている。こうしたインスタレーションと鑑賞者のあり方を美術史家のクレア・ビショップは「脱中心化」というキーワードで論じている。少し長いが引用する。

インスタレーション・アートは脱中心化された主体の理論の出現と当時に台頭した、ということが、本書が依拠する基本的な前提の一つである。これらの理論は、1970年代に広まり、ポスト構造主義的なものとして描写しうるものだが、それは、ルネサンス的な見方に含まれていたものとは異なる、観者をめぐる考え方を提供しようと試みている。すなわち、つまり、合理的、中心的で一貫した人間的な主体の代わりに、ポスト構造主義の理論は、それぞれの人間は本質的に場所を外され、分裂させられて、自分自身と不和であると主張した。脱中心化の言説は、フェミニストやポストコロニアル理論に共感するアート批評に影響を与えている。支配的イデオロギーによって永続させられている、「中心化」の幻想は、男性中心主義的、人種差別的、保守的なものである。どこにも「正しい」世界の見方などなく、正しい判断を下すことのできる特権的な場所もどこにもないからである。

Claire Bishop “Installation Art A Critical History”, Tate Publishing,2005, p. 13

  上記の引用には大きな対比が示されている。ルネサンス美術に代表されるような理想化、その正しさが別のものを支配しようとする保守的な「中心化」するもの。そして、その対になる概念の「脱中心化」がある。この「脱中心化」の概念は具体的にすぐに想起できる場合とそうではない場合があるだろう。簡単な入り口としては支配的なものから差別されるもの、社会の中心的な立場から排除されるもの、それ自体が一貫性を持たないもの、分裂した要素を持つもの・・・。ポスト構造主義的思想について詳しく説明することは避けるが[ii]、具体的な出来事や人物について詳細に描写するとき、どこまでも一貫して変容することがなく固定されたものは存在するだろうか。物事はどこかに見過ごされた綻びを含み、誰もが不完全さを持ち、社会的に固定された地位や貼られたラベルとは異なる部分を持つ。その不一致から目を反らして自らを完全であるかのように偽ることで初めて可能になるのが「支配的イデオロギー」の「中心化」であり、細かなことから目を反らせない、自分自身に一貫性がないことから逃れようがないことを認めるのが「脱中心化」の概念である。

 この展示がインスタレーションという形式で鑑賞者を「脱中心化」する、と指摘するのが本小論の趣旨ではない。本小論の冒頭で、この展示が複数の「世界」を往復するという関心に沿っていると見立ててみたが、更にそこから踏み込めば作品群が示す「世界」の複数性、一貫性のなさから見つけることができるのは、作品自体の「脱中心」的関心である。
 作品はその作品自体が取り扱う主題や作者の関心に従って取捨選択が行われる。それは同時に取り上げないものを選ぶ行為でもある。本展の作品中の「世界」が移り変わっていく多動的な様相には、その一貫しない「世界」の提示によって、常に選んだものの裏に選ばなかったものがあることが喩えられている。この「世界」の移動の多さ、ここに何かがあると示すやいなや手のひらを返して別の位相に移る動きが、本小論が冒頭で示した、本展の作品群に共通する関心である。在と不在の位相の移動を切り換えていくのではなく、すべては並行して在るということへの関心は、展示のタイトルからも伺える。
 
 こうした関心は言い換えればものごとを「中心化」、固定化してみることを避けたままに表象しようとしたアーティストの制作の動き、もがきである。

 初期インスタレーション・アート形式の継承

 この展示は、我々が見る対象とするもの(Contents)の在と不在が同時にあるという脱中心化された状況を取り扱うだけでなく、その展示の仕組みとして鑑賞者を不穏で、疑わしい状況に招き入れるインスタレーション形式ならではの実践を行っている例である。

 昨今、アートのイベントという銘を打った没入的な空間展示が行われている例は枚挙にいとまがない。広々と天井も高い空間全体に自然の情景や草花の映像がプロジェクションマッピングされ、ときには鑑賞者の動きに反応してその映像が変化するインタラクティブ性を備えた試みは、「アート」の一種である。多くの人が快適に見ることができる高精細映像に囲まれる「良さ」や「映え」は伝統的な意味での美しさに他ならないだろう。
 
 一方でこの展示における体験は、作者が意図するところとしてザラザラとした不穏さを隠さない。塩ビのパイプは腰を折って覗き込むことを要求してくるし、強い風がマイクにぶつかる音、何の声なのか不明な音に知覚を動員させなければならない。しかしあえて言えば、この不快さ、得体の知れなさこそが、インスタレーション形式のもたらす価値の一部である。アート業界の偏屈な不親切さでこのように説明するのではない。私たちは日頃、最適化された情報に囲まれ、最短で快適なことを当然として生きている。出会う予定のなかったものには関わらないことが当然の世界で、不用意にそれらと遭遇させられることもまた、インスタレーション形式が持つ固有の価値と言えるのではないだろうか。
 現在でこそインスタレーション・アートはハッシュタグつき投稿が推奨される美術館のアトラクションと化しているが、その祖先であると言って差し支えないアンドレ・ブルトンらによって一九三八年のパリで初回が開催された「国際シュルレアリスム展覧会」では、デュシャンが天井から千二百個の石炭袋をぶら下げ、部屋の中央に雑草まみれの沼が作られている様子が知られている。当時の美術サロンの観客たちは驚きと不安な気分でその空間に足を踏み入れたに違いない。インスタレーション・アートは、先程の1990年代のビショップの引用では観客を主体化する試みと考えられてきたが、むしろ元を辿れば観客が疎外され、歓迎されないよそ者として足を踏み入れるところにその面白みが隠されていたのではないだろうか。
 インスタレーション・アートのありかたは変遷しつつあるが、本展における鑑賞者と作品群との関わりは、いわば初期のインスタレーション・アート形式における、疎外される鑑賞者としての体験に近いものをもたらしている例の一つである。

本展の価値

 以上のことから、本展が作品の主題として扱う「脱中心的」関心とその複数のさまざまな事柄に出会う鑑賞者のあり方が初期のインスタレーション・アートの醍醐味を引き継いでいることを示した。単になんだか不穏な後味の展覧会だったと思うのが素直な向き合い方かも知れないが、一体それはどこからそう思わされたのかを筆者なりに分析したものが本小論である。
 「脱中心的」なもの、つまりどこかに全くの正しさが備わっていない、少しずつ破綻したものというのは、言わば私たち自身が生きている日常をある程度の解像度で見ようとした時に必ず出会う問題である。本展はこうした問題に真摯に向き合いながら、インスタレーション・アートとしての面白みを体現してくれる稀有な展示の一つだと言うことができるだろう。


[i] 詳しくは、下記の書籍等を参照されたい。
・藤田直哉「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」(2014)『地域アート』堀之内出版, 2016
・アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践 芸術の社会的転回をめぐって』編著=, フィルムアート社, 2018
[ii] 現代思想における「脱構築」という用語にも言い換えることができる。詳しくは下記の入門書などを参照されたい。千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書,2022

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