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欺瞞学とウ・ヨンウについて

またもや最近読んだ本や見たドラマなどに絡めて考えたことなどを、知り合いのブログを読むのが趣味だという奇特な人に向けて書きます。相変わらず三体シリーズが面白くて、本編の作者とは別人がネットに投稿したものが話題になって翻訳までされているという『三体X 観想の宙』を読みました。

三体人による欺瞞学

三体シリーズを読んだ人はXがまだでも理解していると思うのですが(読む予定の人にはまあまあなネタバレになってしまうので読後に来てください)三体人たちは地球の人類とは大きくコミュニケーション方法が異なっており、思考したことがそのまま相手に伝わるのが当然だと考えている。それ故に地球人の「嘘をつく」能力は三体人には脅威となる。

三体世界の”欺瞞学”研究者によれば、欺瞞の原理ーー偽の命題を意識的に広め、相手にその命題を信じ込ませることで、期待する効果を生じさせるーーを頭で理解することはさほど難しくない。しかし、三対人にとって、それを実践するのはまったくの別問題で、不可能に近かった。

宝樹『三体X 観想の宙』訳=大森望、光吉さくら、ワン・チャイ, 早川書房, 2022

この引用箇所だけでもウキウキするぐらい面白い話題だと思うんですが、嘘をつくって人間にとって基本的すぎるし、三体Xでもこのあと地球人代表の雲天明がやってのけるように自分で自分に嘘をつくこともよくあるよね。
虚偽の情報が流布されている可能性についていつも頭のどこかで警戒していなければならないのは当然のこととした上で、利害が絡まない嘘なら無視するところまで含めて各個人が社会生活に適応することと欺瞞は深く結びついていると思う。

ウ・ヨンウ的欺瞞

ここで別の作品の話をする。『ウヨンウ弁護士は天才肌』のこと。
まあここで話題にするのは正確に言えばASD(アスペルガー症候群)の特性として言葉を字義通りに受け取ることに限定されてしまうのだが、それとは関係なくウ・ヨンウ弁護士めちゃくちゃ魅力的で最高なので未視聴の方はぜひどうぞ。&こんなに天才ならASDの有無、関係ねーっていう白けた気持ちも2%ぐらいあるけど。
繰り返しになるけどヨンウ弁護士は言われた通りに受け取るので、上司が「まあまあ、かけてください」とか言ってる中で他の同僚が椅子に座らなくても一人でさっさと座ってたりする。ASDの特性なので。こういう描写も細かくて演技も「それっぽい」。

しかし今話題にしている欺瞞についてはどうかというと、彼女は知能的に優れているので欺瞞も理解するし、駆使する。が、その上で弁護士の倫理規定を何度も自分の中で反芻して良心に苛まれたりする若々しさがある。何と言っても彼女は法を愛するので、法の前で正直であろうという気持ち、平等さへの関心は高い。なので、企業弁護士としての葛藤はありつつ率直で正しくあることの良さが描かれている作品でした。すごくシンプルだけど、欺瞞の溢れるこの世界において、心が温まると同時に洗われる作品でしたね。お風呂じゃん

欺瞞に満ちた偽善的な・・・

欺瞞について戻ると、欺瞞という言葉が使われるシーンとして思い浮かぶのは、綺麗事(平等とか、博愛とか)に対して理不尽な目に遭ってきた当事者が「そんなのは欺瞞だ!」と叫んでいるところです。(一体何の作品に出てくるのだろう?出典不明のシーン)
言い換えれば「タテマエとして綺麗事があるかも知れないが、実態は異なっていて自分は被害者だ」というようなシーンである。このことからもわかるように、欺瞞という言葉の意味するところとして、オレオレ詐欺で語れる還付金の存在=欺瞞というよりも、偽善的なことを「欺瞞に満ちた」等と表現することが多いのではないだろうか。

欺瞞グラデーション

しかしながら、一応我々はたいていの場合(とくにこんな日本語で書かれたニッチな文章を読んでいるなんていうことは)法の下の平等をうたった近代国家の国民である可能性が高い。わたしもそう。そして、直接司法のお世話になったことはなくとも、一応それが機能していることになった世界に生きている。もちろんそれは欺瞞に満ちた世界ではあるかもしれないが、理想的に書かれた法律に守られている部分は当然あって、怪しい事件のニュースが後を絶たない社会に疑いを挟みながらも生きている。・・・というふうに、今の自分が生きている社会の感覚を書くにしても人権保障をアピールしたいのか怪しさを訴えたいのかわけがわからないのが実態である。だって世界には欺瞞が満ちているから。満ちていたところで、すぐに刺殺しには来ないから。という感じだろうか。そんなに世界は白黒はっきりしてない。建前として作られた法律で解決される問題と、なかなかそれが難しい場合とがグラデーション状になっているのではないだろうか。

タテマエをホンネ化する欺瞞

いやいや、人類の全ての不平等を解消すべく尽力する!そんなヨンウ弁護士的正しさで取り組むと「そんなの欺瞞だ!」というシーンに繋がる。それに、その叫びには正当性があって、どれだけ天才肌の弁護士たちが尽力しても理不尽な目に遭う人が一切いない世界はなかなか実現が難しい。
「そんなの欺瞞だ!」という叫びには、ずっと疑い続けなければいけないことへの悲しさのようなものも詰まっている。誰もが平等で保障された幸せな世界なんか今まで一度もどこにもなかったのに、それを目指すなんて欺瞞だ・・・。まあそんなところでしょうか。
ところが、目指さないと各個人の眼の前の問題は解決していきようがないので建前として人々の安全が保障されていること自体はあって然るべきなんですけどね。ヨンウ弁護士のように自らがそれを実践していて、手応えとして問題解決に取り組む人ほど、それを欺瞞とは思わず、文字通りに実践していると思えるのかもしれない。だってそれが自分にとっての世界だから。そう考えると、建前であることはわかった上で本気で取り組むことが欺瞞や、それを疑うことから解放される唯一の手立てだという気がしてくる。

欺瞞のない世界

人は騙されることも嫌だし、騙される可能性を心配して疑うことも嫌がる。けれども、すべてが安全で幸福で満ち足りていて心配のない世界は多分どこにも無いので、どうしても先程から述べているような近代国家的権利を謳った法は欺瞞になる。
つまり欺瞞のない世界は法やその他の建前が一切ない世界=ホッブズ『リヴァイアサン』の「万人の万人による闘争」的世界ということになる。
あるいは、動物や年齢の低い子どもも欺瞞とは無縁である。嘘をつかないから。

欺瞞のない使命

『三体X』の雲天明が自分で自分に嘘をついていた例にあるように、私たちは自分自身に嘘をつくことを常としている。例えば「生きる意味」のような簡単に答えが出ないことについてついつい考えたいけど、考えてもあんまり正確なものにすぐたどり着けそうにないし(そんなのあったらとっくに知られている)、かといって気にならないわけないので一度その命題を忘れたフリをして生きていく・・・というような欺瞞を自分で課している。そこには当然疑いも生じて、いや、実はそんな意味なんかないのに何をこんなに毎日嫌な気分になったりしながら明日も早起きしなければならないの?とか思ったりしているわけだ。
ところが欺瞞のない使命というものがいくつかこの世には存在していて、例えばそれは他者との契約で生じる。狭義での命を預かる医療行為とかはもちろん、自分よりも幼い、若い、あるいは老いた等の不均衡な力関係にある人間への責任は重い。だってそこには自分の人生の価値とは違って、自分では判断しようのない(できようのない)価値があるから。
すなわち、他者の生命や人生に関わったり責任を負うことには欺瞞が生じることが少ない。とりわけ無力な生き物はこちらの責任が重いし、手を尽くすことに何の疑問を挟む余地もない。そんなとき、疑いから解放されるのかもしれない。

欺瞞から逃れるための命

しかしさらなる疑いが生じる。何のために生きているのか分からないとか、欺瞞に満ちた世界への疑いが晴れない・・・というような「気晴らし」として欺瞞のない世界の生き物(子どもや家庭飼育用ペット)を持つ人間もいるのではないか?という疑いである。
たしかに欺瞞のない生き物との関わりは疑いの余地がない純粋な経験をもたらしてくれる。しかし、それがもし欺瞞に満ちた世界を疑い続けることからの逃避だったら?それは欺瞞とは無縁のものなのだろうか。
もうこうなってくるとベネター『生まれてこないほうが良かった』みたいな話になってくるのではないか。しかしそんな疑いもまた、他者の人生(命)という価値をはかりようもないものを低く見積もりすぎた発想に過ぎないのかもしれない。
反出生主義は主張が明瞭なので何にでもあてはめて考えてしまいがちだけど、やはりどこかに優生学的な危うさがある。自分の出生の権利についてだけ語るから問題ないという留保だけど、他者の出生についてもあてはめてることのできる評価基準のようなものが含まれている。
それもこれも、先程述べた「生きる意味」をついつい考えてしまっては、すぐに答えが出ないことなのに急いで答えて欲しい、早く答えが欲しいと急かすような姿勢が感じられる。もはやこうなってくるとその「答え欲しさ」の欲望に必要なのは一度それについての考えを止められる欺瞞ではないだろうか。「その命題を忘れたフリをする」という欺瞞と、他者の人生との関わりの中で欺瞞のない使命を負って動いてみることぐらいが私の思いつく三体人のような人生を送るための手立てである。


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