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絡新婦のよすが

糸引の滝。薄曇の夜空に満月が輝く。
何年ぶりだろうか、気がつけば此処に来てしまった。

僕……神田秋津は、できる限り善良に生きてきたつもりだ。
助けを求める人には手を差し伸べてきたし、虫のような小さな命も大切にしてきた。

だけど神も仏も、僕を見捨てた。

生きる理由なんて、最初からあったのか?

滝壺へ橋の上を一歩踏み出す。欄干が驚くほど低い。

それを乗り越えて、落ちるに身を任せる……それで終わる筈だった。


陰鬱な記憶が走馬灯の如く脳裏を過る。

ある日買い物に出掛けたまま戻らなかった母。
口さがない者達のあらぬ噂話。
酒と賭け事に溺れるようになった父。
いじめの餌食になった時も、誰も気に留めはしなかった。
父の酒と賭け事に消える金。そして夜逃げ。僕を捨てて。

――最後に、風に飛ばされそうな一匹の蜘蛛。


気がつくと、滝壺を眼下に体が宙に浮かんでいた。見えない糸に吊られるが如く。
痛みはない。まだ僕は生きているようだ。訳も分からず身を起こすと、眼前にきらりと光るものが見えた。

糸だ。細い糸が月明かりに光っている。

僕はそれを掴む。まだ何処かで救いを求めていたのかも知れない。糸は驚くほど強く、僕の体を軽々と支えた。
少しずつ、確実に全身が水面を離れていく。この糸を垂れたのは誰か、ふと顔を上げる。

目が合った。射干玉の瞳、濡羽色の髪を伸ばした妖艶な美女。

幽雅な黒留袖の下には一糸も纏っておらず、たわわな乳房が露わになっていた……思わず目を奪われる。

彼女が手を伸ばし、その細い指を僕の手首に絡めた。


「また逢えたわね、秋津くん

なぜ僕の名前を知ってる?
目を凝らせば彼女の下半身は黒と黄、紅の妖しくも怖ろしい模様を持つ大蜘蛛だった。

あの時の恩を返そうと思ったのよ」

僕はその姿を見てなお彼女に魅入られた。神にも仏にも見捨てられた身、
この妖女を救いの縁とするのも悪くない。
柔肌と冷たい蜘蛛足に抱かれながら、僕の中でふと“あの時”の記憶が蘇る。


【続】

スキするとお姉さんの秘密や海の神秘のメッセージが聞けたりするわよ。