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【小説】稲毛海岸ドリーマーズ②

連作掌編小説です。
全文無料でお読みいただけます。


  *S*

 朝の5分は大きいなどと言うけれど、お昼直前の1分はその何倍も大きい。

 12時には休診の札を下げ、クリニックを出られる。そういう設定になっているはず。それなのにときどき、受付終了の11時ギリギリに飛び込んでくる人がいると、そうはいかなくなる。私が診察券を受け取るときには時刻は11時5分を過ぎることになる。

 病人は優先すべきだ。わかっている。診察はだいじだ。それもわかっている。それでも、私にとっては昼休みもだいじな優先したいことなのだ。

 週に一度、休診日前の火曜日はスイーツランチと決めている。好きなケーキを2つ、自分に許す。それもとびきり美味しいケーキを。

 このクリニックから歩いて5分、ダッシュすれば2分のところに美味しいケーキ屋があった。フルーツからチョコレート、チーズケーキまで、ケーキのサイズは全体的に小さめだけれど、最近よくある甘さ控えめなんかじゃないケーキ。ふんわりまあるく絞られた生クリームがふんだんに飾られている。どれをチョイスしても間違いがない味に、それでいて価格は良心的、そんな店だ。

 この店ではケーキのイートインも可能だった。席は2席しかないのだけれど、コーヒーか紅茶と一緒にケーキを食べることができる。

 けれど、この席を確保するのが難しい。夕方ケーキを買いに行くと、誰も座っていない席がナチュラル系雑誌の一ページみたいに空間を贅沢に使って、おしゃれな雰囲気を醸し出していることも多いのだけれど、昼時は違う。ランチにケーキを食べる人は案外多いのかもしれない。席はいつもだいたい埋まっている。明らかに席が空くのを狙っている人の姿を店の前に見つけることもしばしば。

 何度かチャレンジをしてみた結果、12時ジャストにクリニックを飛び出し、ダッシュで店に入れば席を確保できる可能性が高いことがわかった。開店からやって来ていた常連と思われる人がちょうど席を立つ、そういう頃合いのようだった。

 これを逃すと、まず30分は席は空かない。狭い店内でイスの後ろに立ち、早く席を立たないかと恨みごとを考えながら待つのは楽しい時間じゃない。1分を争って、私はランチへ出掛けるようになった。

 糖分高め、カロリー高めも、昼間の時間帯ならば夜よりも断然イイ。ストレスも解消される。この時間が無かったら、私は仕事なんてとっくに辞めていたと思う。スイーツランチは労働するための糧、日々の原動力。だからどうしても譲れない。

 ここ半年、何回も中耳炎を繰り返している女の子がいる。たぶん、お母さんの都合だろう、女の子がやって来るのはいつも11時ギリギリ。消炎綿の交換だけで、さほど時間はかからない患者さんだと思いきやそんなことはなかった。この女の子は、ああだこうだと異常を訴え、その都度、先生は女の子の長話に付き合わなければならなくなるから、診察が長引く。目下、最もやっかいな患者さんだった。

 今日も自動ドアが開くのと同時に鳴るチャイムの音が響いた。時計を見ると10時58分。

 火曜日なのに!

 叫びたくなるのをグッとこらえる。入って来た女性の顔が目に入って、先回りするようにカルテを探しに動く。この間、受付は無人になってしまうけれど、あのお母さんが財布から診察券を取り出すのにはカルテ探し以上の時間が必要だからかまわない。ただ待つなんて愚の骨頂だ。

 案の定、私が戻ってもお母さんはまだバッグの中をかきまわしていた。

「モモコちゃん、今日はお痛みはなぁい?」

 先手を打って女の子に訊く。

「ないよ」

「よかった。先生に呼ばれるまで座って待っていてね」

 よし、大丈夫。今日はいけるかも。

 一歩リードした気分で、テキパキと仕事を片付ける。今日は週イチ、ケーキの日。

 頼むからみんなちゃっちゃと動いてよね。

 祈るような、命令するような気持ちで私はクリニックを見渡した。今日はなんのケーキにしよう。2席しかない店の様子が頭に浮かぶ。

 できればいつか、私たちスイーツランチを楽しみにする人間の、この憂うべき状況に気が付いた店側が、カフェのように店舗を拡大してくれることを願う。そうしたら、ここのコーヒーが実はどこのカフェよりも美味しくて好きなのだと、おおっぴらに口コミできるのに。


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