見出し画像

私の原体験〜タイ・バンコク編

前回はこちら

私のビジョンができあがる原体験は全部で3つ、
今日はふたつめのバンコクでの経験。
振り返って感じるのはやはりスッキリしない悔しいような感情だ。


ふたつめはタイ バンコクでの生活

一つ前の投稿で言及したNGO時代に
2007年〜2008年にかけて滞在したタイ・バンコクでの記憶。

実は当時ブログを書いていたのだけど、
帰国してしばらくしたある日
突然そのブログが閉鎖された。

写真たちはどこかにあるはずだけど探し出せていない。
(見つかれば貼っておきます)

バンコクのスラム街で研修

その頃の私は20代なかば。
外務省がスポンサーの若手スタッフ育成プログラムとして
海外のNGOでの研修に赴く機会を得た私。

当時は条件に該当する若手の人材が限られていたし
そもそもNGOという組織は一時的に外に人材を出せるような
組織にも業界全体のしくみにもなっていない頃だった。

そんななかたまたま私に白羽の矢が刺さり
当時英語もタイ語もまともに話せない(!)私が
バンコクのスラム地区に5ヶ月送られることになる。

研修先は Foundation for Slum Child Care
という名のバンコク・クロントイ地区にある財団。
そのころご存命だった王女様がパトロンで
今も王室関連の財団として活動している。
(ウェブサイトは更新されていないけど、最近のニュースで今年国王の息子が訪問していたことを知った)

現場の活動はメンターから学んだ

この財団の主な事業はスラム地域における
子どもを持つ家庭の包括サポートのしくみづくり。
主軸の活動は「Baby Second Home」という
地域内で小規模保育ができる人材・拠点の開発だった。

継続的な事業創造と事業発展、
スタッフの育成とエンパワメント、
国や行政との連携、
国内外のファンドレイジング、
組織内外のブランディング

何もかも初めての地で、学ぶべきことは溢れていたが
公用語はタイ語で、スタッフの9割は英語が話せない。
(土着のNGOだからね)
最初のころはメンターのPさん(英語通訳)にほぼべったりで
彼女なしでは途方に暮れていたと思う。

毎日Pさんと必死にコミュニケーションしながら
現場での様子を見ていくなか、やがて
Pさんの突出したリーダーシップに気づくことになる。
組織の潤滑油のような役割を担っていた彼女。
小柄ながら、スタッフの中でもひときわ笑顔が明るく
上司からも同僚からも信頼が厚かった。

組織は女性ふたりのツートップ

コミュニケーションできない私は
よくも悪くもずっと観察していた。
というかほぼカメラマンに徹していた。

当時財団のの経営を担っていたのはふたりの女性。
ひとりは物腰柔らかく組織をまとめる女性性が優位なタイプ、
もうひとりは事業をガシガシ推進していく達成欲の強いタイプ。

メディア対応、渉外対応はこのふたりの仕事、
現場の活動は20名ほどのスタッフが主体的に動く。
組織の中で期待される役割がはっきり見て取れた。

何もわからない私が見てもわかるくらい
組織がオーガナイズされており
(もちろん"マイペンライ"の場面はたくさんあった)
年間を通してスタッフをエンカレッジするような研修があったり
地域の人とともに楽しむイベントがあったり
現場スタッフは日常業務の忙しさのなかで、
プロフェッショナリズムと成長意欲が総じて高かった。

私が唯一得たものは、2つの組織を比較する視点だった。
それは他の組織に入って、比較して初めて分かること。
たとえば、
財政基盤を強固にする戦略
活動を担う人材の獲得と配置
女性二人によるリーダーシップ
自組織にはない強さを見て、日本に戻ることになる。

帰国後またモヤモヤしていた私

当時の報告書を眺めると、なかなか煮えきらない内容で、
自分でもこの経験をどう昇華したらよいのか
悩んでいたことがわかる。

たった2枚の報告書の内容自体も視座が低く稚拙さが目立って、
15年前に戻って報告書を添削したい衝動にかられる。
(なぜ上司に赤入れをお願いしなかったのだろう…)

現地の経験から吸収できる知識、視座、知見を
噛み砕ききれなかった自分が、今になって悔しい。

26歳の秋から春にかけての消化しきれないバンコク滞在。
これが私のふたつめの原体験。


余談ではあるけれど
当時メンターをしてくれていたPさんは、
実はもうこの世にはいない。

メンターであり、友人であり、家族のような存在だった
親愛なるPさんへ 心からの愛と感謝を込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?