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ちょっと時間が空いたらあてもなく本屋をぶらぶらするのが好きなんですよね

ちょっと時間が空いたらあてもなく本屋をぶらぶらするのが好きなんですよね、と言うとさぞかし本がお好きなんですね、と返されることがある。そんなときは、まあ人並みですかね、と曖昧に返事をして、話題が広がらないように努めるのが常だ。


本が好き。そんなことは口が裂けても言えない。だって本を読むと目がしょぼしょぼしてくるし、姿勢が悪くなるから背中がずきずきと痛むようになる。両肩を前方に突き出し、肘を直角に折り曲げて地面と平行な視線の先に本を据えて読むのが癖だから、数ページ読むだけで肩こりに悩まされることになるし、もしその本が分厚い単行本だったりしたら、僕の細い腕はその重さに耐えきれずに悲鳴を上げる。まあそれはともかくとしても、本を読むのはたいそう疲れる。ふと気がつけば小さな文字列は僕の目を通り過ぎてなんの痕跡も残さずにおさらばしてしまっているし、早くこの章を読み終えて温かいココアでも飲みたいなあと考えていたりする。すっかり働かなくなった脳みそに鞭打ちながら、息も絶え絶えで区切りの良いところまで読み終わると、さっきまでの凍った頭が急に溶解していくのを感じる。


本を読むのに疲れて、気分転換をしたいと思う。そんな時は本屋に足を運ぶのがお決まりだ。面白そうな本を物色しながら、体をうまく使って狭い通路を通り抜けていく。まだ読んでいない本が三百冊ばかり家にあるから、絶対に今日は新しい本を買わないと心に決めている。すると視界の片隅に、まえがきだけ読んだ哲学書の下巻が置いてある。確かこの本は絶版になっていて、アマゾンでもだいぶ値段が高騰していたはずだ。僕はカステラのカスみたいな記憶を呼び起こして、財布に千円札が何枚入っていたかを思い出そうとする。三枚。あ、違う。今日の昼にラーメンを食べたんだ。しかもチャーハンとのセットにしてしまったから、微妙に千円を越してしまった。券売機にはいかついお兄さんたちが並んでいて、パンパンに膨れ上がった小銭入れの中から目当ての硬貨を取り出す時間などなさそうだったから、泣く泣く二枚の千円札を使って昼ごはんにしたんだ。と、いうことは、僕の財布には千円札が一枚、あと無限の可能性を秘めた小銭たち。


分厚い本の背表紙を見て、値段を確認する。二千円代なら買えるはずだ。高校生の頃から使っている擦り切れた僕の財布にだって、それくらいのポテンシャルはある。三千円プラス税。うーん、うーん。


ここは小綺麗な古本屋だ。だから店内で財布を開いてごそごそ中身を確認するなんてみっともない。とはいえこの店ではクレジットカードが使えない。だから勝負は小銭たちにかかっている。五百円玉が四枚入っていたら!それなら間違いなく僕はこの本を買うことができる。三枚だけでも十分勝負になる。ただ、いくらめんどくさがり屋の自分だって、五百円玉をそんなにたくさん小銭入れに入れたままにするだろうか。財布のずっしりとした重さをポケットに感じながら、僕はこの本を静かにもとの棚に戻した。まだ読むべき本がたくさん家にあるのだから。


読書というのは不思議なもので、読みたいと常々思っていた本に数ページばかり目を通すだけで、かつての向学心とか知識欲はどこかに行方をくらませてしまい、全く関係のない事柄に関心が移行することになる。それで家にあるその関心事に一番近そうな本を手に取るものの、どこか物足りない気分になって本屋へと自転車を漕ぎはじめるのだ。それで家に帰ってまたその本を数ページ読んで…


だから体系的な読書などできない。つまり体系的な勉強などできない。それでいて大学院に行ってみたいなあと迫りくる現実から遠ざかろうとしている。


移り気の僕に何ができるのだろうかと考える。ただ、本を積み上げること。僕にはそれくらいしかできそうにない。積読の効用など、それは僕から最も遠い人間であるいわゆる専門家なる人種がたくさん述べているから、そんなことを語るつもりはないしそもそも資格がない。


しかし、家に本があるという事実は、乱雑で狭苦しい僕の下宿を安心感のある無限の空間に変えてくれる。本を読むのは疲れるし、そんなに好きではないけれど、読みたい本が、まだ読んでいない本がたくさんある。あるだけでいいのだ。僕だって生きているだけでまあ許してくれよ、と、懇願。誰に?


喉から手が出ちゃう