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『青天を衝け』第23回「篤太夫と最後の将軍」(2021年7月18日放送 NHK BSP 18:00-18:45 総合20:00-20:45)

 渋沢成一郎(高良建吾)の嫁である渋沢よし(成海璃子)ところにパリから一枚のホトグラフが届けられた。よしは「中の家」の千代(橋本愛)のもとにそれを見せに行く。凜々しい篤太夫の姿に目を細める千代は娘のうた(三井絢月)にそれを見せ、「とっさまが帰るまで行儀も心がけもちゃんとしなくてはいけませんよ」と躾ける。もちろんこれは次のホトグラフが送り届けられたときの千代の驚愕を強調するための伏線でもある。

 その頃パリでは外国奉行支配調役・杉浦愛蔵(志尊淳)から幕府の600万ドルの借款がダメになったとの報が篤太夫(吉沢亮)たちのもとにもたらされる。あてにしていたフランスの銀行ソシエテ・ジェネラル(1)が幕府の信用に疑問をもち断ってきたのだ。狼狽する一行であったが、為替を発行して資金を調達することとし、篤太夫がその為替を引き受けてもらえるようイギリスのオリエンタル・バンクなどを回り何とか資金を調達。昭武(板垣李光人)一行は欧州諸国訪問に出かけた。訪問先のひとつスイスのベルンでは、薩摩によって落とされた公儀の信用を取り戻すためにはるばる日本からやってきた外国奉行・栗本鋤雲(池内万作)とも出会う。栗本は杉浦に先に帰国することを命じ、篤太夫には小栗忠順(武田真治)から預かった為替を渡し、「おぬしに任せたぞ」と告げるのであった。篤太夫は帰国する杉浦に故郷への文を託す。一番気にかかっていたのは見立て養子にした平九郎(岡田健史)のこと。杉浦は「平九郎君のことも引き受けよう」と約束するのであった(2)。

その同じ日の朝。京では原市之進(尾上寛之)が暗殺された。ドラマでは結髪が終わったあとに襲われて刺し殺されるという形で描かれていたが、Wikipediaの記述によれば、結髪中に背後から襲われ首をもがれるという相当残虐な形で命を落としたとのこと。さすがにテレビでは無理。市之進暗殺されるの報を成一郎から聞いた慶喜(草彅剛)は「なぜ私の大事なものを次々と奪う」と独り言ちるのであった。

一方、血洗島では渋沢平九郎と名を改めた尾高平九郎が江戸に出ることに。千代は「お武家様になったからには忠義の道を尽くすように」と諭す。密かに平九郎を慕うてい(藤野涼子)とのお別れのシーン。意を決してお守りを渡すてい。ていを抱きしめて「いつかお前を嫁に欲しい」と誓う平九郎。それをそっと見守るゑい(和久井映見)と千代であった。

場面は変わって、京郊外の岩倉村。岩倉具視(山内圭哉)は錦の御旗のデザインを大久保一蔵(石丸幹二)に示すが、大久保は一刻も早く「倒幕の宣旨」をいただきたいと岩倉に告げる。伏見の薩摩藩邸では西郷吉之助(博多華丸)が天璋院御守衛という名目で浪人を集め、いくさの準備に余念がない。一方、有力な側近を失った慶喜(草彅剛)は、一人碁石を並べながら思案し、出した結論は「大政奉還」。これしか公儀(江戸幕府)が生き残る道はないと。

そして慶応三年十月十二日。京の二条城で慶喜は大政奉還を宣言したのであった。慶喜の言葉に瞑目する徳川家康(北大路欣也)であったが、当然、江戸の幕閣、大奥などは大きな動揺を来していた。京では松平春嶽(要潤)に今後の政権構想を語る慶喜。「この先ともに新しき日本を創りましょう」との言葉に春嶽も感動し、同意する。

「倒幕の密勅」を発していた薩摩と岩倉具視(山内圭哉)は、先手を打った慶喜の大政奉還策に一本取られた形になったが、朝廷は岩倉の復権を許し、岩倉は5年ぶりに返り咲くことに。

パリではヴィレット(サンシモン)が昭武の家庭教師に就任。この先、皆、髷を落とし、刀を外し、洋服を着てもらうことに。まずは形から入るという教育方法であった。で、さすがに昭武(板垣李光人)の貴公子姿は立派であった(実際よりもイケメン過ぎる気がするが・w)。

そして、篤太夫と銀行家フリュリ・エラール(グレッグ・デール)との会話シーン。レオポルド二世との会談のシーンを回想しつつ、篤太夫の独白シーンである。このフリュリ・エラールとの出会いは渋沢の今後を大きく左右していくことになる。

水戸藩士たちが帰国することになった日本ではクーデターが進行中。復権した岩倉は、中山忠能(明治天皇の外祖父 堀内正美)らの力を借り、幕府寄りの公家衆(中川宮(奥田洋平))らを排除。小御所会議王政復古が決定。しかし、会議では土佐の山内容堂や松平春嶽、尾張の徳川慶勝らは慶喜の側に立ち、薩摩派と対立。いよいよ薩摩はいくさを仕掛けることを決断。徳川方は挑発に乗ってしまうのであった。

次回「第24回 パリの御一新」は、2021年8月15日放送予定。

注)
(1)フランスの産業金融を専門とする銀行。ロスチャイルド系。サン=シモン主義との関係で言えばペレール兄弟によるクレディ・モビリエのほうが深いのに、渋沢たちが頼った銀行はソシエテ・ジェネラルであったことについては、鹿島茂氏のこちらの解説を参照。
(2)杉浦はのち、渋沢との共著で『航西日記』を刊行しており、国会図書館のデジタルアーカイブで読むことができる。前回の船中での食事の話などもその「巻之一」に記述されている。

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