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「吉原」は江戸幕府の都市整備から始まった

「大吉原展」にいってきた。

徳川家康が江戸に幕府を開くと、
大規模な都市整備のために各地から大量の労働者がやってきた。
京都や大阪などから商売をするために移住してきた人もたくさんいた。
武士ももちろんどんどん増えていった。

江戸の街では、男性が極端に多くなった。

そこで、遊女屋があちこちにできた。

遊女屋があんまり増えるので、ある業者が
「お上公認の遊郭地域にしてもらおう」
と考えた。
その人は甚右衛門といった。

甚右衛門の考えに対して、
「公儀が許したら世間にすけべいが増えるので許可されないんじゃないか」
と心配するものもいた。
甚右衛門は、
「ちがう、お前は了見が狭い」
となじった。
「遊女屋がどんどん増えていくから、すけべいが増えるんだ。
遊女屋を増やさないように、『ここだけOK』な特区をつくってもらうんだ」
みんな、なるほどと思った。

甚右衛門は、幕府にこう訴えた。
「京都でも大阪でも、いろんな港町にも特区がある。
江戸にはそれがなく、遊女屋があちこちに増えている。
これは社会のためによくない。
人身売買の防止や治安維持にもなるので、
どうか遊女屋特区を認めて欲しい」

それから5年後の1617(元和3)年、5つの条件付きで特区指定がなされた。
一、遊女はそこ以外では商売してはいけない
一、1日1夜以上、客を泊めてはいけない
一、遊女の着物は贅沢してはならない
一、建物は質素に、町並みも江戸の格式通りに
一、不審者が入ったら奉行所に通報すること

甚右衛門には広い土地が与えられた。
葦や葦が茂った湿地帯だったが、
そこを整地してできたので「吉原」と呼んだとされる。

いまの日本橋人形町のあたりになる。
(その40年後に、浅草に移転することになった)



「大吉原展」図録を参考