日々忙しく充実しているのが「幸せ」?

最近ひょんなことから、夕方Eテレをつけることがあり、小学生~高校生くらいまで大好きだったアニメ『おじゃる丸』を久しぶりにじっくり観てしまいました。以前大好きだったこともあり、とても懐かしく、かつ大人になってすっかり荒んだ心を癒すような平和な世界観に、またハマりかけています。腐りきった絶望的な世の中、目に入るのは「どこも終わってんなー」と思うニュースばかりで、現代を生きるというのは難儀じゃのうと痛感する日々ですが、そんな中の現実逃避というか、心のオアシスとして作用しているようです。

災害だー預金封鎖だー金融危機だー食糧危機だー、備えないと備えないとと思い、色々調べたりしながらある程度対策をしていますが、何をしても十分ということはなく、あれも必要かな?こういうこともしておいた方が…など考えると際限なく出てきます。あらゆるものが汚染され、健康に良いとされるものが実は身体に悪いとか、A推進の裏にはBの思惑があるとか…そういうのを調べるのが趣味でもありますが、多すぎて疲れてしまっていたのも事実。「あぁ、もうおじゃるみたいにまったり生きよう…。死んだらその時はその時だし。」と何か肩の力が抜けたような気持ちにもなってきました。

そもそも私は誰よりも暇を愛すようなところがありまして、予定がなくまったりする日が一番幸せという価値観で少なくとも今は生きています。以前は週5フルタイムで働きながら土日も予定を入れるようなこともしていましたが、今では到底考えられないです。時間ごとに予定を書ける手帳などもありますが、そんなのは要らない世界で生きていたいものです。世の中的には、忙しく予定が詰まっている方が充実していて幸せ…というような価値観が割と主流なのかなと思うのですが、30代にして隠居志向なのか、はたまたまったり5歳児に戻ったのかはさておき、「忙しい=充実=幸せ」とはなかなか感じられないのですよね。似たようなことは過去にも、「忙しい、忙しい」という現代の退屈という記事にも書いています。

最近、『WAYFINDING 道を見つける力』( M・R・オコナー (著), 梅田智世 (翻訳) )という本を読んでいたのですが、この本に興味深いことが書いてありました。タイトルの通り、GPS等の技術が発達する前に人類はどのように道を見つけていたのか…というようなことが書いてある本で、先住民は道を覚えるために目印の些細な違いも見分けられるほど観察力が優れていた…という話がありました。それで、そのためには移動の速さも重要であり、あまり速度が速いと観察できなくなる、と。現代は移動のスピードが速くなったために、移動が単なる無駄な時間、削減すべき非効率な時間になった…というような話もありました。些細な違いを観察するためには、ある程度ゆっくりとしたスピードで移動しないといけませんね。

現代はスピード命!の時代で、タイパが大事、動画もファスト視聴…というように、移動のみならずあらゆる物事がせかせかしているようで、毎日目が回りそうです。私が「通勤」に最も苦手意識を持つのは、朝のラッシュ時の人々のせかせかした空気でした。乗り換えに急ぐ大勢の人々のピリピリした空気に反応してしまうのか、よくパニック発作のようなものを起こしていました。移動と観察の話にもつながりますが、忙しいと全体的に「気づき」の感度が落ちるように感じていて、外の世界への観察力、内側の世界への観察力もおのずと鈍るだろうなと思います。そうして外の世界の忙しさに忙殺され、自分や他人の心に対しても鈍感になり、愛や思いやりが削がれていくのかなと感じます。

この世はいろんな人がいてバランスが取れるようなところがあり、極端に忙しい人がたくさんいると、極端に何もしない人(ニートや引きこもりでしょうか)もたくさん出てくるんですよね。おじゃる丸はいつでもゆっくりまったり歩いており、だからこそ四季折々の草花の変化を愛でたり、町中の人々とお友達になれたりするんだろうなと思ったりしました(笑)。みんながのんびりまったり生きられないのは、やはり経済の問題が大きいですね。まさに『モモ』(ミヒャエル・エンデ著)の時間泥棒です。「忙しい=幸せ」「タイパ・コスパが大事!」も誰かの洗脳なのかな?!

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

「note見た」で友達申請→村上遥のFacebook

Twitter再開しました!→Twitter


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?