僕の小説の特徴① 『永遠について』

 どうもみなさん、こんにちは。ひかるです。

 僕が書いている小説には、なんというか、傾向みたいなものがあって、自分で小説を読み返すたびに「あー、俺ってこんな小説(物語?)書きがちだなぁ」と思うことがあります。

 たまには自分なりに小説を分析してみて、思ったことを共有していこうと思います。

 僕って小説の中で『永遠』を書きがちなんですよね。もちろんそんな直接的なテーマの物語は書いていないんですが、具体例だと↓みたいな作品

  • 遺体を焼く仕事は、今後も決して途切れることなく行われる営みである。

  • 空クジラという生物が、あるときを境に座礁するようになる

  • サッカー選手たちがサッカーをしなくなってしまう。これがなくなることで、誰が困るかはわからないけど、主人公の男の子は言い得ない寂しさと悲しみを感じる

 上記の作品が代表例かなと思っています。で、これを踏まえると、どうやら僕は永遠を善いものと感じているようです。一方で、その永遠が途中で断ち切られることが悪いことと考えてる節があるようです。

 でも、僕達って、あまり永遠を善いものとは思わないですよね。フリーザ様とかは永遠の命が欲しいと言っていますが、じゃあ僕達も永遠の命が欲しいかと言うと、正直微妙ですよね。無限の生きるのってなんか怖いし。

 仏教には輪廻転生という考えがあって、肉体が死んでも、魂が再び現世に蘇るというものです。これもある意味、魂は永遠に存在する、という意味では同じ意味もかもしれません。ちなみに仏教においては、実は輪廻転生って善いものではないんですよね。知ってました? 昔、予備校で古文の授業を受けていたときに教えてもらったんですけど、輪廻転生って要するにしんどいわけですよ。次は人間に生まれるかどうかもわからないし、人間に生まれたとしても過酷な環境の元に生まれたら辛いわけですし。だから、仏教の教えでは、生きているうちに修行しまくって、死んだ後には輪廻転生せずにうまいこと天国に行きたいわけです。天国は極楽浄土なわけですから、面倒な輪廻転生から開放されるわけです。仏教徒はみんなこれを目指している(たぶん)

 というわけで、普通ならあんまり永遠をポジティブな意味で受け取る人はいないし、僕も別にフリーザ様みたいになりたいわけじゃないのですが、なぜか小説を書くときは永遠を善いものと描く傾向があるようです。なんででしょうね?

 一方で、日本人は、永遠を直接ではないけど間接的に好んでいるということも事実だと思います。よく漫画やアニメで『日常系』というジャンルがあると思います。これは、特に物語的に起伏があるわけではなく、登場人物たちの和やかな日々を描くことで、読者に癒やしと笑いを届けるというものです。この『日常系』の中では、登場人物たちはとくに成長しないし、辛い出来事も起きないし、永遠に高校2年生だったりするわけです。サザエさんとかクレヨンしんちゃんもそうかな。

 こういう『日常系』に求めるものって、変わらなさや安定性だと思うんですよね。僕達はこれを見て、笑ったり和んだりしたいわけです。平和な毎日がずっと続いて欲しいと思うからこそ、『日常系』作品を視聴することで安心することができる。

 このジャンルが流行っているのって、日本だけなんですかね? 海外ではあまり聞かないような気もしますが。

 つまり、我々日本人は、平和な毎日がずっと続いて欲しいという、間接的に永遠を希望しているわけです。戦争もなく、悲しみもなく、時々ちょっと事件が起きるけど、次の日には変わらず笑っていられるような、そんな日々を切望している。

 裏を返すと、僕達はこんな日常から程遠い生活を過ごしているからこそ、そんな日々を切望するのかもしれません。

 話を戻しますが、僕の小説もそれに近いんじゃないかなと思うわけです。我々は実は心の奥底で永遠を切望していて、僕も無意識のうちにその思いを小説に投影しているんじゃないかな、と。

 もっと言うと、僕達の生活の中には、あんまり意識できていないけど永遠っぽいものがすでにたくさん営まれていて、それが明日も明後日も続くと我々は信じていると思うんですよね。

 で、普段意識できていないからこそ、あるときその永遠っぽいものが何らかのトラブルで故障してしまっても、僕達は気付けないんじゃないでしょうか。何か「むむ?」と思うことはあっても、まあいいかと思ってやり過ごしてしまうんじゃないでしょうか。

 僕の小説は、そういう「永遠が故障してまったらどうしよう」という不安が描かれているのではないか、と自分で思うわけですねー。

 

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